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LENT | Day 21

Day 21 ※御言葉を読む前に、まずは主の前に静まる時間を持ちましょう(2分間)。 その後、御言葉をゆっくりと、3回繰り返して読みましょう。 ヨハネの福音書 3章26~30節 26) 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」 27) ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。28) 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。29) 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。30) あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」 ディボーショナル 頑張って生きる人は誰しも、「これだけは負けたくない」というものを密かに持っているでしょう。学生であれば、自分の好きな教科やスポーツ。主婦であれば、自分の得意料理。ビジネスマンであれば、自分が専門としているプロジェクト。努力して成功を重ねてきたからこそ自信があり、人には負けたくないのです。 とはいえ、自分より圧倒的に優れている人だと分かれば、素直に負けを認め、比べることすらしません。どんなに野球に自信があっても、メジャーリーガーの大谷翔平選手に負けたくないとは思いません。むしろ喜んで教えを乞うでしょう。負けたくない思いが生まれるのは、自分より経験が浅く、知識が乏しく、年齢が若く、努力もしていないと思われる人が、自分より成功している時です。今日の聖書の箇所のヨハネの弟子たちがそうでした。 バプテストのヨハネは、多くの人に悔い改めを説き、洗礼を授けていました。ヨハネの名はその地域全体に知れ渡り、絶大な影響力がありました。しかし、ヨハネの弟子たちは、多くの人たちが「新人」のイエスから洗礼を受けているのを見て、「皆があの方の方に行っています」と不平を漏らします。何ともみっともないと思われるかもしれませんが、この負けず嫌いは時に、私たちにも見られることです。 時々、私たちは、神に対しても負けたくないと思っていることがあります。それは、神に頼らず、自分に頼って生きている時です。自分には限界があり、不完全であることを忘れ、自分の力で頑張りすぎている時。すべては神の働きであることを忘れている時。無意識であっても、そのような時に、私たちは神よりも優れていると思い込み、神に対しても負けず嫌いになっています。 しかし、ヨハネはわきまえていました。自分が何者なのか、また、イエスが何者なのかを知っていました。自分の働きと神の働きの違いを悟っていました。だからこそ「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と告白しています。言い換えれば、「キリストが高められ、私は低められなければならない」ということです。 神と比べたら、私たちの知恵や能力はあまりに小さいものです。どんなに頑張っても、事実として、私たち人間には限界があります。このことを「本当に」悟る時、何か成功しては有頂天になったり、失敗しては自己嫌悪に陥ったりと、一喜一憂することがなくなります。また、学校であれ、家庭であれ、仕事であれ、伝道や弟子訓練であれ、働いているのは神であり、私たちではありません。そもそも無力である私たちが、愛と憐れみによって、無限の神の働きに加えられているのです。このことを「本当に」悟る時、どんな試練や苦しみに直面しても、心底、喜んで神と人に仕え続けることができます。 問いかけ 神を知り、自分を知るために、神様から賜物(ギフト)として与えられている自分の限界や足りなさは、具体的に何でしょうか。 祈り 神様。時々、私はあなたに対して負けたくないと思っていました。あなたの力や働きを自分のものだと思い込み、結果に応じて、自信過剰になったり、自己嫌悪に陥ることを繰り返してきました。どうぞ憐れんでください。今、あなたこそが私の主、キリストであることを悟らせてください。今、あなたこそが高められ、私を低くしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 ※最後に、もう一度、静まる時を持ちましょう(2分間)。 Silence and Stillness before God ...