7/26 Message (Japanese Translation)

In Uncategorized by mike

「主にとって不可能なことがあるだろうか?」 

創世記18章14節(創世記15、16、17、18、21章)

スティーブン・マー兄

今、私たちが直面している最も難しいことは何でしょうか?これはさまざまな理由で、扱いにくい話題かもしれません。私たちの多くは、とっくに諦めてしまった夢を抱え続けています。また、私たちの多くは、とっくに諦めてしまった悪い習慣を抱え続けています。そして、この質問に答えるのが難しくなる理由は、この会衆にいる私たちのほとんど、いやほぼ全員が、表向きはクリスチャンであり、信仰を公言するクリスチャンであり、教会に通うクリスチャンではあるものの、自分の人生を神に委ねる方法を知らないからです。特に、最も困難な部分についてはなおさらです。しかし、良い知らせがあります。あなたは一人ではありません。聖書には、疑念に満ちた状況の中で、神を信頼するとはどういうことかと格闘した人々の例が数え切れないほど記されています。

今日の説教の問いは、創世記18章14節から来ています。「主にとって不可能なことがあるだろうか?」 この物語の主人公であるアブラムとサライは、この節に至るまでの数章にわたって、それなりの経験を積んできたと言えるでしょう。私はこの視点から彼らについてお話ししたいと思います。なぜなら、神が御心を成し遂げる中で、どのように私たちと関わってくださるのかについて、そこから多くのことを読み解くことができると思うからです。創世記全体に散りばめられた箇所からこのことを見て行きます。本題に入る前に、まず祈りを捧げましょう。

創世記15章

  • 創世記15章、神がアブラムの前に立てられたあの有名な最初の契約から始めます。神は創世記15章1節で祝福をもって語り始められます。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」」最初、アブラムの反応は喜びであるはずだと思うでしょう。「やった、ありがとう神様!素晴らしい! 最高!」と。しかし不思議なことに、ここではそのような反応は見られません。
  • その代わり、アブラムは神に質問します。創世記15章2〜3節「アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」」神が大いなる報いを約束されたのに対し、アブラムは事実上「どんな報いですか?私には跡継ぎさえいないのに?」と言っているのです。跡継ぎを持つことは、アブラムが生きていた古代近東社会において非常に重要なことでした。彼は神の御顔に向かって、神が良いお方であることに疑問を投げかけているのです。
  • さて、もしあなたが私と同じなら、あなたの直感的な反応は、アブラムは正気なのか、今にも神に打たれるのではないかと思うでしょう。しかし神は、この挑発的なアブラムの問いに対して、直接的な報いの約束をもってお答えになります。創世記15章4〜5節。「すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
  • 創世記15章6節でこう述べています。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」こうして、素晴らしい幕開けが示されています。神がアブラムと契約を結び、それを始められ、アブラムは信じたのです。
  • しかしアブラムの信仰は疑問と無縁だったわけではありません。創世記15章8節を見てください。「アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」」彼は自分の必要、自分の疑問を、神のもとに正直に持って行っています。神の善良さに対する自分の確信についてさえも神に打ち明けているのです。これが二度目ですが、神はまた即座に答え、彼を尊重されます。
  • 創世記15章9〜11節を見てください。「すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。
  • ここで神は驚くべきことをなさいます。創世記15章17節「日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。」神は行うと言われるだけでなく、ご自身の行動をもってそれを証明され、しかもご自身をその契約に巻き込むところまでなさったのです。後でこの点についてさらに掘り下げていきます。
  • 私が「出発点」と呼ぶものはここです。聖書はこの場面で、当然のことながら、アブラムの信仰を称賛しています。しかし私が強調したいのは、アブラムには疑問があったということです。彼はそれを神のもとに持って行き、神に対して正直でした。そして神はそれを尊重し、アブラムの信頼を得るために直接的なしるしを与えるほどでした。神が私たちのいる場所で私たちに出会ってくださること、神が本当にそこにおられることを、神に感謝します。そして神の臨在を感じるその最初の瞬間、その最初の場面は、素晴らしく豊かなものです。

創世記16章

  • しかし人生は常にそのままであり続けるわけではありません。私たちはよく、自分の人生の中で、まだ自分の望む状態に至っていない領域を見出します。それは成長したいと願う霊的な訓練かもしれません。十分に育っていないと感じる御霊の実かもしれません。サライとアブラムの場合、それは神の約束でした。彼らが神の答えを待ち望んでいた約束であり、率直に言えば、すでに忍耐を失っていた約束でした。それが創世記16章で起こることです。

創世記16章2節「サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

  • サライは神を信頼していません。この発言には多くの重荷が伴っています。不妊はその文化において恥の源でした。当時の文化では、サライのアイデンティティは恥に深く根ざしていたことになります。アブラムはすでに86歳、サライはほぼ80歳です。論理的な観点から言えば、可能性は高くありません。このままでは跡継ぎがいないかもしれず、跡継ぎがいなければ血筋も次世代への継承もありません。この恥、この感情的な経験を、彼女は神のせいにしました。サライは幻滅と、神の計画を受け入れることへの拒絶が入り混じった状態にあります。彼女は絶望の底にいるあまり、神の計画がまるで神が言われたこととは正反対であるかのように、神が自分の子どもを授かることを妨げているとさえ考えているのです。
  • そして彼女は夫に、自分の女奴隷と寝るよう告げ、事態を自らの手で解決しようとします。ここには二つの側面があります。彼女は「神様、あなたは私に良くしてくださらない」と言っている一方で、「神様、私は大丈夫。自分で道を作ります」と言っているのです。何かを思い出しませんか。先週の、蛇がエバのところに来た話を思い起こさせるでしょう。エバは自分にとって良いと思えるものを見て、それを自分のものにしました。神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と尋ねられます。そしてアダムはエバと神を、その結果生じた混乱のせいにします。間違ったタイミングで物事を自分の手で解決しようとしてはなりません。

創世記16章3節「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

  • この節は情報だけでなく文脈も与えてくれます。10年というのは、何かを待つには長い時間です。特に若い世代の皆さん、10年前に自分が何をしていたか、どんな人間であったか、どこにいたかを考えてみてください。このように答えのない長い年月は、時間が凍っているように感じられるでしょう。私は彼らの例に倣うべきだと言っているのではありませんが、私たちは彼らの行いを単に「不敬虔だ」として片付けてしまいがちだと思います。もし私たちがその誘惑を理解せず、そうした誘惑がどのようにして私たちの中に忍び込んでくるかを認識しなければ、私たちもまたその犠牲になりかねないのです。

創世記16章4節「彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。

  • ここでハガルの視点を完全に無視したくはありませんが、私が明確にしたい最も単純な結論は、サライとアブラムが自らの決断によって、他者の間に争いを生み出しているということです。あなたも自分の歩みの中で、何かに突っ走ってしまい、その混乱に巻き込まれた無関係な人々に損害を与えてしまった経験があるかもしれません。これは、愚かな意思決定が悲劇的な結果を生み出した実際の事例です。

創世記16章5節「サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

  • そして今、その考えは最初から彼女自身のものだったにもかかわらず、サライはアブラムを責めます。私はこれを彼女をあざ笑うために言っているのではありません。ここで起きていることは、人が神のタイミングにしっかりと根ざしておらず、信頼していない時に生じる、非常に人間的な反応だと言いたいのです。人間の論理や理屈からすれば、サライがもはや希望はないと考えたのも無理はないと簡単に主張できるでしょう。サライの心情は理解しやすいものです。「私が人生でずっと望んできたのはただ一人の子どもだけ! それさえも望みすぎなの?」絶望の中で、サライは取り引きをしましたが、今や自分自身の不安と向き合うことになります。

創世記16章6節「アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

  • こうして、傷ついたサライはハガルを虐待し、自分の家から女奴隷を追い出し、取り返しのつかない事態となってしまいました。時間の都合上、イシュマエルとハガルの物語は飛ばしますが、それは本当に素晴らしく、重要な内容だと思いますので、ぜひご自分で読んでみてください。今日はアブラムとサライの視点に焦点を当てていますので、その部分を飛ばしますが、要点は、神は素晴らしいことを約束されましたが、サライとアブラムは神のタイミングに対しての忍耐の限界に達してしまったということです。

この一連の出来事全体が、神のタイミングに対する深い不信を示しています。信仰と忍耐の欠如は明らかです。では神はこれにどう応答されるでしょうか。

創世記17章:神は結ばれた契約を再確認される

  • 創世記17章で、神は契約を再確認され、アブラムとサライのアイデンティティを、アブラハムとサラという新しい名によって再確立されます。

創世記17章15〜19節「また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」 そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

  • ここで神は、この家族に降りかかった荒波にもかかわらず、祝福を約束しておられます。契約は更新されようとしており、「私の王女」を意味するサライは、単なる個人的な意味を超えて、来たるべき国の「王女」であるサラとなります。
  • さて、アブラハムの反応もまた、実に人間的で理解できるものです。彼は笑い、ひれ伏します。彼の人生における最も希望がなく、最も楽観できない、最も痛みを伴うことが、彼の人生の墓から掘り出され、再び彼の目の前に置かれているのです。それが神以外の誰かによるものなら、それは紛れもなく侮辱的な行為だったでしょう。あなたならその瞬間、どう反応するでしょうか。
  • アブラハムの反応は交渉です。彼は神を、自分が想像できる範囲の制約の中に押し込めようとしています。彼は「どうか、イシュマエルが御前で生きますように」と言います。要するに「イシュマエルはあなたにとって死んだも同然なのですか。なぜ彼では十分ではないのですか」と尋ねているのです。あなたにも、人間の限界を超えているからといって、何かを諦めてしまったという経験はありませんか?これについては後でもう一度触れますので、少し心に留めておいてください。
  • 今、私たちが知る必要があるのは、神が人間の限界を退け、アブラハムに明確にお語りになっているということです。「不可能なことを信頼しなさい。私がそれを成し遂げるのを見るだろう。」そしてこれは次の章へと続きます。

創世記18章

  • 創世記18章9〜15節「彼らはアブラハムに言った。「あなたの妻サラはどこにいますか。」彼は答えた。「天幕の中におります。」 すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。 サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。 主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」 サラは打ち消して言った。「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」
  • ここが、この物語の中心となる箇所です。私が、この箇所へ至るまでの数章の物語を語った理由は、この家族全体、特にサラに、これまでどれほどの感情的、精神的、霊的な疲労が重くのしかかってきたかを理解しなければ、ここでの神の言葉の重みを理解できないと思ったからです。彼らは今、再びこの痛ましい傷と向き合わされています。サラは特に、アブラハムが前章でちょうど祝福を受けたばかりであるだけに、なおさらです。当然の反応として、神が本当にそれを実現してくださるかどうか疑うのです。もちろんそうでしょう。90年の人生の後、カナンでの10年があり、約束の契約の外で生まれた子供を経て、これまでの道のりは傷跡だらけになってしまったのですから。私はサラの見解が正しいと主張しているわけではありません。私が言いたいのは、聖書の言葉を自分の心に響かせ、神を自分の心の中に迎え入れなければ、なぜ苦闘しているのかを理解することはできない、ということです。
  • 神はサラの心に応答されます。この本文の読み方にはいろいろな解釈がありえます。神がサラを叱責している、あるいは何らかの形でサラを咎めているとも読めるでしょう。しかしこのシリーズのタイトルを思い出してください。これは「神の問い」です。これらの問いは、私たちの心を明らかにするためのものです。それらは私たちが今まさに置かれている状況に、まさに寄り添うためのものです。神はサラに「あなたはまだ私を信頼しているか」と尋ねておられます。神を信頼するとは、神を魔法のランプの精のように頼ったり、一日を乗り切るための霊的なカフェイン補給として頼ったりすることではありません。神を信頼するとは、神が「行う」と言われたなら、最後まで成し遂げてくださると信頼することです。
  • 確かに、私たちが追い求めても、実現しないことはあります。よく誤用される有名な聖句にピリピ人への手紙4章13節があります。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」NBA選手ステフ・カリーが信仰を公言するために、しばらくの間、グッズの一部にこの言葉を掲げていたことで有名です。しかし例えば、私が残りの人生をかけて努力しても、NBA選手にはなれません。ではここでの違いは何でしょうか。それは私自身の計画ではないということです。もしアブラハムが「神様、サラに息子をお与えください」と言っていたのなら、話は別です。しかしここで語っているのは神ご自身です。神は、その約束を必ず果たすという事実について、ご自身を責任を負う立場に置かれているのです。神は、私たちの愚かな追求、例えば私がプロのバスケットボール選手になろうとするようなことには、責任を負われません。しかし神はご自身の言葉に対しては責任を持たれます。これに関して、聖書全体に散りばめられている言葉があります。それは「契約」です。創世記15章17節を覚えていますか。神は、それが実現することをご自身の御名にかけて約束しておられるからこそ、人間に対してご自身を関与させたのです。
  • この後にはアブラハム自身の信仰の欠如のためにサラを危うく窮地に追い込みそうになったエピソードがありますが、時間の都合上、創世記21章まで飛ばします。

創世記21章

  • 創世記21章1〜7節「主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。 そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。 アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。 サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」 また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」
  • これがこの物語の幸福な結末です。「笑い」を意味するイサクが誕生しました。そしてサラとアブラハムは、神がそれを約束されたときに神の目の前で笑い、自分たちの忍耐のなさと不信によって、互いに、そして周囲の人々に争いを引き起こしたにもかかわらず、そして初めから神を疑っていたにもかかわらず、少しの信仰と、豊かな神の恵みによって、長らく待ち望んでいた息子を与えられました。はっきりさせておきたいのですが、アブラハムとサラは、何の問題もない完璧な主人公ではありません。むしろ、彼らはご自分の定められたことを成し遂げてくださる、忠実な神の御手の中にいたのです。

意味と適用

では、これらすべては私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。それは、私たちが置かれた状況や環境についてどのように考え、神のタイミングをどのように理解するかという点に、大きな影響を与えます。私たちが前に進み、神と共に歩むべき時があります。

土台:神と共にいること

  • 私たちが今読んだ古代近東の物語は、私たちが普段持っている文化、霊性、経験とまったく同じではありません。しかし、フェイス・バイブルの皆さん、私たちは神と共にいるということにおいて成長しなければならないと思います。実は、ここに「祈り」という言葉を書きたかったのですが、神の臨在を伴わない祈り、儀式的でチェックリストのような祈りは、正しく神の臨在を招くことにはならないということを、はっきりさせておきたいのです。私たちは、必ず、真の期待をもって祈らなければなりません。「作り物」のような体験や、神のタイミングではないことを無理に起こそうとすることへの懸念があるのは分かります。しかし私たちは、神との結びつきという霊的な土台である深い井戸を見失ってはなりません。あなたは神の臨在を招きいれていますか。あなたは神の臨在に関心がありますか。
  • 説教の準備にかける時間は、しばしば、人間の働きのように感じられます。しかし私たちは、成長を与えてくださるのは神であることを知っています。私たちは、今この瞬間も神の生ける御霊が私たちの内に宿っておられるという、当然の期待を抱きながら、奉仕に取り組んだり、神との個人的な交わりの時を持つ必要があります。神の御言葉が宣べ伝えられる時、神の御名を賛美する時、不確かなことや困難、試練について神の御心を求める時、その御霊が私たちを導いてくださるのです。私たちは疑問を持つことを恐れる必要はありません。アブラハムはその素晴らしい模範でした。私たちは常にそうした疑問を神の御前に差し出すべきなのです。
  • むしろ、神と共にいるということは、神が私たちに投げかけておられる問いに注意深く耳を傾け、私たち自身の問いを恐れずに神に返すことです。それは詩篇の至るところに見られます。神の民が正直に問いを投げかけているのです。そしてアブラムは最初から、物事を自分の手で解決しようとするのではなく、実際に神に直接問いを投げかけていました。
  • では、この土台は何につながるのでしょうか。私は二つの行動につながると思います。そうです。それはどちらも「行動」だと思います。

行動

  • 神とパートナーとなること。行動とは常により多くのことをすることを意味するわけではありません。時には、燃え尽きて喜びが失われてしまったために、必要とされている奉仕から一歩退くことも行動の一つです。自信が持てない時でも、神が御霊によってその機会へとあなたを導いておられるのなら、一歩踏み出すことも行動の一つです。神はご自分の時に、あなたがいつ、どちらの方向に動くべきかを明らかにしてくださいます。
  • 忍耐をもって神を待つこと。この待つことは、何もしないことではありません。神のタイミングを待つことこそが最善の行動であると信頼することです。それは、人生のパートナーを探す時に、自分の価値観を妥協しないことを意味します。それは、あなたが経験した喪失よりも大きな喜びを、神が与えてくださるのを待つことを意味します。それは、サラの出産について読み、たとえ神があなたに子どもを与えられなくても、あなたが想像もできないほど素晴らしいものを与えてくださることを知ることを意味します。それは、神が実現してくださるという信頼に根ざすことです。あなたが望むそのままにではなく、あなたが望むそのときにではないかもしれませんが、神は成し遂げてくださいます。

二つの例を挙げさせてください。

私の両親と家族

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私は教会に通いながら育ったものの、家族はクリスチャンではありませんでした。今も、私は両親にどう最善の形で仕えるかということに悩んでいます。若い頃私が抱えていた最大の問題は、自分一人で全てを解決しなければならないと思っていたことでした。しかし、神様は私に、神様のタイミングを待ち、いつか訪れるであろう小さな機会や大きな機会を捉えて、両親にキリストの愛を示し、両親として敬い、彼らの未来を神様の御手に委ねることができるのだと何度も繰り返し思い出させてくださいました。この状況においては、私に求められている行動の多くは忍耐強く待つことだと思っています。私は両親に電話をかけ続け、できる限り良い関係を保とうとしていますが、私自身が彼らの救い主になるように召されているのではありません。そしてもしあなたが私と同じ状況にあるなら、あなたもそうではないと思います。もちろん祈らないという意味ではありませんが、私たちは神のタイミングを信頼すべきだと思います。

私の依存症とこれまでの問題

これから話すことは、皆さんの中には少し気まずく感じる方もいるかもしれません。私は長い間、神を十分に長く信頼し続ければ、自分の依存症を克服し、自分の問題を乗り越えられると思いながら育ちました。そして15年間、私は性的な依存と戦っていました。私には希望が全くありませんでした。そして本当に、私がこの状況全体をどれほど諦めていたか、言い表せないほどです。しかし神は、周りの人々や、ご自分の愛に満ちた臨在を通して、無数の小さな一歩を踏み出させ、私を少しずつ正しい方向へと導いてくださいました。そして最終的には、これが自分のあるべき姿ではないと信じられるようにしてくださったのです。ここで男性の皆さんに一言申し上げたいと思います。もしあなたが自分の体、欲望、情欲を制御できないと思っているなら、聖書は私たちがそれをできることを明確に語っていると、今この場ではっきりお伝えします。そしてそれが真実であるなら、神はその契約における自身の責務を全うすることを示唆しています。

この秋から、ヤングアダルトの男性のためのグループを始めたいと思っています。これはスモールグループでも、アカウンタビリティグループでも、単に情報を与えるだけのコースでもありません。これは、私が、自分の世代を苦しめていると思うこの問題に、男性たちが安全な場で向き合い、その根を断つための助けとなることを目指しています。来月、具体的な内容について詳しく話し合う会を開く予定ですが、私が今経験している自由、決して手にすることはないと思っていたその自由を、皆さん全員に経験してほしいと願っています。信じてください、その多くは実践的なステップ、実践的な資料を通してのものでしたが、そのすべては、自分のアイデンティティをめぐる霊的な戦いと、私に対する神のアイデンティティを求めることに、深く根ざしていました。これは、ただ待つだけでは解決しない状況でした。私は、神の力によってこの依存症を克服し、自分の傷ついた心を癒すために、神ご自身がパートナーとして支えてくださると信じなければなりませんでした。なぜなら、神ご自身がそうしてくださると約束されたからです。コリント人への手紙第一10章13節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

最後に、皆さんにリトマステストのような質問をして、終わりたいと思います。

  • あなたの人生の中で、完全に神に委ねているものはありますか。ここでいうのは、受け身だったり、何もしなかったりすることではなく、神を信頼しているかということです。それを成し遂げてくださる方は神お一人だけであると知っているかということです。
  • あなたの人生の中で、神とパートナーシップを組んで取り組んでいるものはありますか。必要があるからやっているのではなく、これこそ神があなたに共に取り組んでほしいと望んでおられることだという確信で、神があなたを満たしてくださったからこそ取り組んでいるものはありますか?

もしあなたの人生にこの二つがまだないのなら、何でも成し遂げることのできる神のうちに、それらを見出すことができますようにお祈りします。主にとって不可能なことは何一つありません。お祈りしましょう。