8/16 Message (Japanese Translation)

In Uncategorized by mike

「良くなりたいか(癒されたいか)」

ヨハネの福音書5章1~9節

マイク・カーツ師

私たちは誰しも、人生の中で「意味のある変化はもう起こらない」と諦めてしまっている領域があるでしょう。心のどこかで半ばあきらめて、「これはもう決して変わらない」と思い込んでしまっている領域があるでしょう。あなたの人生の中で、意味ある変化を期待するのやめてしまったようなことはありますか?

ヨハネによる福音書第5章に登場するある男性は、おそらく誰よりもこのことを深く理解していたのではないでしょうか。彼は歩くことができず、ベテスダの池で38年もの間、癒やしを求め続けていました。この物語が異例な理由は、彼が長い間癒やしを求め続けていたことではなく、イエスがこの人の必要にどう応えられたかにあります。ヨハネ5章のこの物語を読むたびに、私はいつもイエスが彼に投げかけた質問に心を打たれます。その質問は、普通、このような状態にある人に投げかけるような質問ではありません。イエスの質問は、聞きようによっては非常に失礼に聞こえる可能性があります。

話を進める前に、一言お伝えしたいことがあります。この場には、何年も肉体の癒やしを祈ってきた方々がいることを私は知っています。あらゆる治療法を試みてきた方もいるでしょう。誠実に神を信頼してきたのに、望んでいた癒やしがまだ与えられていない方もいるでしょう。この箇所は、あなたの苦しみが続いているのは信仰が足りないから、あるいは努力が足りないからだと言っているのではありません。神が癒やしてくださることもあります。しかし、パウロのように「とげ」を負い続けながら、その中でも神の恵みが十分であることを知る場合もあります。このメッセージの意図は、皆さんに自由をもたらすことにあるのだということを、どうかご理解ください。

この物語は、単に癒やしを必要としている一人の男性についての話ではあません。それは、一見すると当たり前に思える問いが、私たち自身に問いかけ始めたとき、実は深い意味を持つことになる、そのような問いについての物語です。

ヨハネによる福音書5章1~9節を読んでみましょう。

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。(ヨハネの福音書5章1~9節)

1.「良くなりたいか。(癒されたいか。)」

この質問がなぜこれほど不自然に感じられるかというと、それはまるで侮辱的のように聞こえるからではないでしょうか。もちろん彼は癒やされたいに決まっていますよね?この男性は38年間障がいを抱え、来る日も来る日もこの池に通い続けてきたのです。当然、癒やされたいはずです。問題は、なぜイエスがこのような不自然な質問をされたのかということです。「あなたが長い間ここにいると聞きました。癒やしてあげましょう」と、ただそう言えばよかったのではないでしょうか。しかしイエスは代わりに、「あなたは良くなりたいか(癒やされたいか)」と尋ねられました。実に興味深い質問です。もちろん彼は癒やされたいに決まっています。そうでなければ、なぜこれほど長い間、池のそばにいたというのでしょうか。

なぜイエスが、一見当たり前に思えるこの質問をされたのか、私には確かなことは言えません。聖書の本文もそれを語ってはおらず、明確な手がかりもほとんどありません。しかし、この質問は私たちに即座に答えを探そうという気持ちを抱かせます。この質問は、この男性だけでなく、私たち自身の弱さにも向けられているのだと思います。少なくとも私にとっては、この問いはこのように問いかけてきます。私は何かに慣れてしまい、神が求めておられるかもしれない変化を追い求めるのではなく、不健全な状態に折り合いをつけて諦めてしまっているのではないか、と。ひとまず、この問いを自分自身に当てはめて考えてみてください。少なくとも私にとっては、何かと長い間向き合い続けてきた結果、そのことを軸に人生を築いてしまっているのではないかと、考えさせられる問いなのです。

この男性は38年間、この病状とともに生きてきました。ここにいる皆さんの多くは、それほど長く生きてすらいないかもしれません。しかし、これまでの人生のほとんどを体の自由を奪う状態を抱えてすごしてきたことを想像できますか?実のところ、人がこれほど長い間、そのような試練を乗り越えて生き延びる唯一の方法は、それと共に生きる道を見出すことなのです。この男性は自分の障がいを中心にした生き方を築き上げました。池は彼の日課の一部でした。彼は適応することを学んだのです。それは彼が癒やされたいと思わなくなったという意味ではありませんが、それとともに生きる方法を学んだのです。そして、そのこと自体には何の問題もありません。

40年間、障がいとともに生きてきた人にとって、その状態を受け入れることは諦めというよりは、むしろ信仰の美しい表れであるかもしれません。その人は、心から「これは神が私に与えてくださった人生だ。忠実にこれを生きていこう」と言えるところまでたどり着いたのかもしれません。それは諦めではありません。信仰によって生きるということです。幼い頃に視力を失ったマリッサのことを思います。人生そのものが忠実さの表れである人といえば、まさにマリッサがそうです。それこそが信仰の成熟ということなのです。

これは身体的な障がいに限った話ではありませんが、ある状況と長い間向き合っていると、その状況にすっかり慣れてしまい、何かを変えることはできないのかと自問することさえやめてしまうことがあります。そして、「自分には変われない」と言う人の中には、実際にはそうではない人もいるかもしれません。確かに、私たちが受け入れて生きていくことを学んできたことの中には、変えるのが非常に難しいものもあるのです。

次のような言葉に、共感できる方もいるかもしれません。「私はそういう人間なんだ。」「昔からずっとこうだった。」「どうすることもできない。」「うちの家族はこういうものなんだ。」「それを受け入れて生きることを学んだ。」私たちは誰しも、こうした言葉を口にしたことがあるのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。そして実際問題、私たちの人生には本当に変えられないこともあります。身体的な状態や環境を変えられないこともあります。過去を変えることはできません。他の人やその人の選択を変えることもできません。それは現実です。

しかし、もう一つの現実は、変えられないことがあるからといって、変えることができることまで変えられないと思い込んではならないということです。ですから、「私はそういう人間なんだ。」とか「それを受け入れて生きることを学んだ。」という思い込みは、ほとんどの人にとって単に真実ではないのです。実際、それはあまりに長い間その状態の中で生きてきたために至った結論であることが多いのです。自分の状態を人生の一部として当たり前だと受け入れてしまったのです。実際には変わりたくないわけではなく、あまりに慣れてしまったために、変えようとする発想自体が浮かばなくなっているのです。

(何かに慣れてしまい、もはや気づかなくなったことの例え:イラスト) これは、私がもはや全く気づかなくなってしまった例です。それがあっても、うまくやっていく方法を見につけてしまったのです。

私たちの人生の中にも、同じようなことがあります。たとえば、

  • 自分の短気さを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。
  • 自分の苦々しい思いを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。
  • 自分の頑固さとうまく付き合いながら生きることを覚えてしまった。
  • 自分の怒りを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。
  • 壊れてしまった人間関係を抱えたまま生きることを覚えてしまった。
  • 自分の恐れを抱えたまま生きることを覚えてしまった。

そして、こうした状態が何年も続いていくと、私たちの中で、ある良くないことが起こり始めます。変わろうとすることをやめてしまい、ただ「どうやってうまく対処するか」を身につけるようになるのです。

この主題について書かれた記事を読んでいたとき、ある結婚・家族セラピストが書いた次の言葉に深く共感しました。

―――

カップルとのカウンセリングの中で、このような言葉を一体何度耳にしてきたか分かりません。「私はこういう人間なんです。」「これが私の話し方なんです。」「ずっとこうだったんです。」

一見、これらの言葉は無害に、いや、むしろ正直な言葉のように聞こえます。自己の特性や習慣、コミュニケーションのスタイルを肩をすくめながら認める、自己認識の表明のように聞こえるのです。しかし、ここに問題があります。それは自己認識ではなく、自己限定なのです。そして人間関係の中では、これは実に有害なものになり得ます。

私たちは皆、自分自身を説明するためにラベルを使います。私は内向的だ。私は率直だ。私は感情的ではない。私は現実主義者だ。私にはフィルターがない。こうしたラベルは、自分で付けたものであれ他人から付けられたものであれ、核心的な真実であるかのように感じられます。それは私たちにアイデンティティを与え、自分を理解するための枠組みとなります。しかし、それはあまりにもしばしば、窓ではなく壁となってしまいます。ラベルは私たちがどんな人間であるかを教えてくれますが、同時に、どんな人間になれないかも示してしまうのです。

パートナーが「私はただこういう人なんだ」と言うとき、本当に言いたいことは「私は変わるつもりはない」ということです。誰かが「これが私の話し方なんだ」と言うとき、多くの場合「あなたにどう受け取られるかよりも、自分の表現のしやすさのほうが重要だ」ということを意味しています。人間関係において、こうした言葉は責任から身を守る盾となります。それらは会話が始まる前に、会話そのものを閉ざしてしまうのです。

―――

現状を維持する理由を見つける人もいます。しかしイエスは「あなたは癒やされたいか」と尋ねられます。あなたはイエスに自分を変えてもらう意志はありますか?もしあなたが「私はこういう人間なんだ」と諦めてしまい、人生の大半をそのように生きてきたとしても、イエスはあなたにそのままでいてほしいと望んでおられるでしょうか。怒ったままでいたいですか?苦々しさを抱えたままでいたいですか?不安を抱え続けたいですか?変化に無関心なままでいたいですか?

簡単だと言っているのではありません。実際、鏡に映る自分を見つめ、自分の「欠け」が自分自身を定義してしまっているかもしれないと気づくのは、極めて難しいことです。私たちは長い間、その「欠け」と共に生きてきたため、それがなければ自分が誰なのかさえ分からなくなっているのです。

そして、あの足の不自由な人のように、イエスも私たちの「欠け」を否定されません。しかし、イエスは、これからもずっとその「欠け」によって私たちの生き方を決めてしまうのか、と問いかけておられるのです。私たちは、その「欠け」による制限以外の何かを基に、私たちの人生を再定義していただきたいと神に願うでしょうか。

では、この男性は、イエスの「癒やされたいか」という問いにどう答えたでしょうか。

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(ヨハネ5:7)

2.「私には誰もいません…」

彼は「私を助けてくれる人が誰もいない」と言います。神の多くの問いがそうであるように、これは単なる「はい」か「いいえ」で答えられる質問です。しかしこの男性は、実は別の質問に答えているのです。イエスは「なぜあなたは癒やされていないのか」とは尋ねていません。

これは実に興味深い応答ですが、その気持ちも理解はできます。彼は池のことや、そこにたどり着けない自分に意識を向けています。それが38年間、彼を苦しめ続けてきたのです。彼の答えは実際には、「はい、でも、できません」というものです。彼がまだ癒やされたいと思っているのは確かだと思います。必ずしも希望を失ったわけではなく、その希望をどう扱えばいいか、その希望を守る方法をを学んだのです。

しかし、ここにはもっと大きな問題があります。確かに彼は希望を守る方法を学びましたが、より大きな問題は、彼が間違ったものに希望を置いているということです。イエスが「癒やされたいか」と尋ねると、男性は池を指さして「入ることができないのです」と言います。ずっと向こう側にある池は見えているのに、彼のすぐ目の前におられるイエスには気づいていないというのは悲しいことです。イエスこそが癒すことのできるお方なのです。彼は自分には誰もいないと思っていますが、必要なものはすべて目の前にあります。ただ、自分が誰と話しているのかに気付いていないだけなのです。

同じような苦境にいる人たちがいるでしょう。本当の答えはすぐ目の前にあるのに、間違った場所に癒やしを求めているのです。そしてイエスを見上げる代わりに、癒やしのプロセスを始めてくれる他の誰かを探し求めているのです。

私自身の人生においても学んできたことですが、私たちはあまりにも頻繁に、状況が変わることを望んでしまいます。他の人が変わることを望みます。神が本当に私たちに望んでおられること、すなわち、私たち自身を変えることの代わりに、周りの人に自分に合わせて動いてほしいと望んでしまうのです。

私たちが抱える苦しみについて、周りの人や境遇を責めたくなる誘惑は非常に強いものです。自分がこうなったのは育った環境のせいだと責め、「もっと良い親だったら」「配偶者がもっと良ければ」「義理の家族がもっと優しく接してくれたら」と考えたくなる誘惑があります。イエスは、そうした人々を変えてほしいと願っておられるわけではありません。イエスが願っておられるのは、私自身が変えられることです。

私の実家の家族でも、二人の家族の間に溝が生じています。これは本人たちもすでに分かっていることなので、ここで話しても構わないでしょう。どちらも一歩も譲ろうとしません。両者とも相手が変わるのを待っています。その間、どちらも自分を変える気はなく、そのため溝は埋まらないままです。その様子を見るのは、本当に胸が痛みます。私は両方の家族に直接話を持ちかけましたが、彼らはどちらも、非は相手にあると固く信じ込んでいます。諦めによって覆い隠されているものの、そこには深い恨みがあり、明らかに痛みがあるのです。彼らは自分たちが自由だと思っていますが、実はより深い痛みに囚われているのです。変化を望みながらも、相手の方に変化を求めているのです。その結果、彼らは相手が変わらないからといって「私にはできない」と言い続けてしまうのです。

ある人たちは、答えがイエスにあるのにもかかわらず、池ばかりを見つめているのです。この箇所の男性は、問題の原因は、自分がちょうど良いタイミングで池にたどり着けないことだと思い込んでいます。そのため彼は、38年もの間、自分にはコントロールできないものをひたすら待ち続けたのです。

自分の癒やしを他人の行動に依存させてはいけません。そうしてしまうと、自分にはコントロールできないことのために、決して与えられないかもしれないものを、いつまでも待ち続けることになってしまいます。

以前にも分かち合ったことがありますが、私が幼い頃、母は、私たち兄弟を心から深く傷つけるようなことをしました。私は何十年もの間、母と一切連絡を取っていませんでした。しかし、母が晩年になってから、ようやく、母との関係を修復することができました。もし私が母からの謝罪を待ち続けていたら(ちなみに母は結局一度も謝ることはありませんでした)、もし私の感情的・精神的な健康状態が彼女の謝罪に依存していたなら、母はすでに亡くなっていて、もう母から謝罪を聞くことは決してないので、私は前に進む希望を全く持てずにいたでしょう。癒やしへの希望を、イエス以外の何かに委ねることは、健全でも聖書的でもありませんでした。私たちは、自分のコントロールできないものに癒やしを委ねてはなりません。そうしてしまうと、私たちの人生は次第に、自分が待ち続けている相手によって形作られてしまうからです。

先ほど触れた私の家族間の溝の場合、彼らは連絡を一切絶つことを選びました。互いに車で15分の距離に住んでいながら、何年も話をしていません。彼らは、相手がいないほうが人生が良くなったと言うでしょう。そのおかげで自分は良くなったと言うでしょう。しかし私にはその表情から分かります。それは彼らを内側からむしばんでいるのです。彼らは「避けること」を中心に自分たちの人生を組み立ててしまっています。すべての状況を知っているわけではありませんし、避けることが不誠実さの表れと言っているわけでもありません。虐待のような状況では、避けることや距離を置くことが必要な場合も確かにあるでしょう。しかし、私の家族の状況について言えば、互いを避けているからといって恨みが消えるわけではありません。避けることは結局のところ、恨みを癒やすことはありません。それは他の人をも傷つけます。実家に帰れば、その明白な現実に直面せずにはいられませんし、他の家族にとっても、そんな状況を見るのはつらいことです。

他の人がなぜ変わらないのか、あるいは自分の状況がなぜ変わらないのかということ焦点を当てないことが、とても重要だと思います。その代わりに、私たちは自分自身にこう問うべきです。「イエスが「私」を変えてくださると信じることを、どこでやめてしまったのだろうか。」イエスは私たちを変えたいと願っておられます。しかし、私たち自身も、自分の中にある困難な部分を神に委ねる意志を持たなければなりません。私たちは、自分の人生のそれらの部分について、イエスに権威を委ねる準備ができているでしょうか

人生における、いわゆる「池」まで私たちを運んでくれる誰かではなく、イエスに希望を置くとは、どういうことでしょうか。それは、状況が変わるのを待つのではなく、今すぐイエスに従うということです。最終的には、求めている癒やしをもたらさないかもしれない池まで誰かに運んでもらうことに頼るのではなく、イエスが言われることを行うということです。あなたが背負っている重荷の中に、イエス以外の誰かが取り除いてくれるのを待っているものはありませんか。イエスは、「重荷を負っている人は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と言われました。イエスは、他の誰かが先に動くのを待つのではなく、イエスの中に癒やしを見出し、イエスとともに前進するようにと私たちを招いておられます。イエスに頼るとは、これまで他人に求めてきたものを、イエスのもとに持って行くということです。

たとえば、誰かのせいで自分には価値がないと感じさせられ、腹を立てているとしましょう。相手が自分に価値があると言ってくれるのを待ちながら、その怒りを抱え続け、じわじわと恨みを募らせることもできますが、イエスのうちに自分の本当の価値を見出すこともできます。

もしかすると、状況が変わるのを待っているせいで、平安を感じられずにいるのかもしれません。あなたは待ち続けて不安を膨らませることもできますし、祈りの中でその思いを神に委ね、神の平安に満たしていただくこともできます。

もしかすると、結婚生活で心から満たされるために、配偶者が変わってくれるのを待ち続けてきたのかもしれません。決して訪れないかもしれないその変化をひたすら待ち続けることもできますし、キリストに仕えることの中に喜びを見出すこともできます。

あるいは、ただ物事に区切りをつけて前に進みたいだけなのかもしれません。「あの人が説明さえしてくれたら…」「神が、なぜこんなことが起きたのか教えてくださりさえすれば…」確かに、それは助けになるでしょう。しかし神はこう言っておられます。「答えが分からないからといって、人生を保留にしないでください。」要するに、誰かが先に動くのを待って、正しいことをするのを先延ばしにしてはいけないのです。イエスは、誰かが助けてくれるのを待ちながら池を指さしているこの男性を、癒やしたいと願いながら、まさにその目の前に立っておられました。そして、私たちを真の自由と変化へ導くために、イエスは私たちのためにもそこにいてくださるのです。

イエスはこの男性の説明にどう応えられたでしょうか。私が良いと思ったのは、イエスが彼を責めなかったところです。イエスはただ、「起きて歩きなさい」と言われるのです。

  1. 「起きなさい…」

この男性は、イエスに応答します。彼はただ床を取り上げ、歩き始めるのです。私たちもそうすべきです。

イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。(ヨハネ5:8-9)

イエスはただ、「私の言うことを聞いて従いなさい」と言われます。この男性は38年もの間、「お前にはできない、絶対に無理だ」という同じメッセージを繰り返し聞きながら生きてきました。毎日池のほとりに座っていたからといって、決して悪いことをしていたわけではありません。彼はただ、自分にはそれしかできないとわかっていたことをしていただけなのです。イエスはそのことで彼を責めたりはなさいません。しかしそこにイエスが来て、別の選択肢を与えられます。この男性は、これから何が起こるのか全く見当もつきませんでした。イエスは何をされようとしているのかを告げてはおられません。それでも、この箇所によれば、男性はただ立ち上がって歩きだしたのです。彼は「これは冗談ですか」とも「本気ですか」とも言いませんでした。彼は、どんなことが起こるか分からないままに、イエスを信じたのです。これはまさに、先週の日曜日のメッセージ(何に対して「はい」と言っているのか分からないときでも、神に対して「はい」と言うことを学ぶこと)に通じています。

多くの人は、これからも特に何も変わらないと思いながら、同じような毎日を繰り返し生きています。ある人にとっては、何年にもわたる痛みや恐れ、そして諦めが、このままここにとどまるしかない、と思わせてきたのかもしれません。しかし、そこにイエスが来られ、新しいもの、これまでとは違う、真実なものを差し出してくださいます。イエスは私たちに新しいいのち、癒やし、物事の新しく見る視点を与えてくださいます。そしてイエスはただ一言「起きなさい」と言われるのです。長い間行い続けてきたことから立ち上がりなさい。立ち上がって、イエスに従いなさい。それがどこへ導いていくのか、今は分からないかもしれませんが、イエスに従っていくなら、その先に待っているのは、必ず良いものなのです。

もしかすると、あなたは今日、何かが変わらなければならないと気付いているかもしれません。心の奥底では、他の誰かではなく、自分の状況でもなく、あなた自身の中で何かが変わる必要があると気付いているかもしれません。イエスは、あなたが探し求めている癒やしを差し出してくださいます。あなたは苦々しさを抱えていますか。不安を感じていますか。怒っていますか。罪悪感を抱えていますか。自分に自信が持てずにいますか。恐れていますか。押しつぶされそうになっていますか。その答えはどこか遠くにあるのではありません。答えはまさにあなたの目の前に立っておられます。その答えとはイエスです。

もしかすると、あなたはまだ自分の人生をイエスに委ねていないかもしれません。イエスはあなたに永遠のいのち、永遠の平安と喜びを差し出しておられます。あなたの人生をイエスに委ね、イエスに従いましょう。

もしかすると、あなたはすでにキリストに従う者でありながら、もがいているのかもしれません。イエスはただ、「起きて、歩きなさい」と言われます。あなたがしがみついているものが何であれ、それを手放し、イエスとともに前進してください。もしかすると、あなたは「何も決して変わらない」という嘘を信じ込んでしまっているかもしれません。それは真実ではありません。イエスはすべてを変えてくださいます。そしてその変化は自分自身から始まります。イエスは、私たちが立ち上がってイエスとともに歩むことを選ぶとき、私たちを変えてくださるのです。

もし「The Chosen」というドラマ・シリーズをご覧になったことがなければ、是非ご覧になってください(日本語字幕もあります)。イエスと弟子たちの生涯を描いた素晴らしい作品です。ヨハネ5章のこの場面は、あるエピソードの中で再現されており、本当に生き生きと描かれています。聖書に書かれている物語の隙間を埋めることで、聖書の物語が、より鮮やかに描写されていると思います。ご覧ください。(動画) 私はこの男性の反応が大好きです。彼はただただ喜びに満ちあふれています。特に印象に残ったのは、彼が自由になったということです。38年間で初めて、これまでと違う生き方をする自由を得たのです。イエスは、とこしえの喜びに満ちた人生を差し出してくださいます。

イエスは、「あなたは癒やされたいか」と尋ねられます。そして、もしかするとあなたの答えは、「はい、でも……」なのかもしれません。「はい、でもまず状況が変わる必要があります。」「はい、でもまず配偶者が変わる必要があります。」「はい、でもまず理由を知る必要があります。」私たちは、ますます遠ざかっていくようにしか見えないその池を見つめ続けたまま、一生を過ごすこともできますが、イエスに目を向けることもできます。私たちは他人をコントロールすることはできないかもしれません。私たちは過去を変えることはできないかもしれません。私たちはすべての疑問に答えを得られないかもしれません。しかし私たちは、自分の欠けをイエスのもとに持って行き、イエスを信頼することができます。そして、イエスが、私たちに行動するようにと召されるところで、私たちは起き上がり、従うことができるのです。