「だれを、わたしは遣わそう」
イザヤ書6章1~10節
マイク・カーツ師
昨日と一昨日、マリナーズの試合を観戦してきました。その日は、歴代選手を称えるイベントが行われていました。「マリナーズでプレーしていた頃の何が一番恋しいか」という質問に対し、誰も「勝利」と答える者はいませんでした。彼らが懐かしんでいたのは、仲間との絆、ロッカールーム、飛行機での移動、友情、そして共に戦った日々でした。試合の結果よりも深い何かがあるようです。目の前の任務以上の何かがあるのです。そして、それは私たちが行うことの多くに当てはまります。特に、神に仕えることに関してはなおさらです。単に神の御業を行うことよりも、もっと深い何かがあるのです。今日、私が話したいのはそのことについてです。
大学生の頃、そして大学を卒業してしばらくの間、私は人生についての葛藤を抱えていました。「私はなぜここにいるんだろう?」「自分の人生をどう生きればいいんだろう?」「主よ、あなたは私に何をすることを望んでおられるのですか?」 こうした問いは、おそらく私たちの多くが、人生のどこかで抱いたことがあるものであり、もしまだそのような疑問を持ったことがなくても、いつか必ず直面することになるでしょう。 私の心からの願いは、人生の目的を見つけることでした。特に、自分が人生で何をしていくのか、その中に目的を見出したいと思っていました。 しかし、時が経つにつれて、以前にもお話ししたことがありますが、神は、私がどんな仕事やキャリアを選ぶかということ以上に、私がどのような人間になるかということに関心を持っておられるのだということに気付きました。
今朝の聖書の箇所で、神様はこう問いかけておられます。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」
「誰がこれをするか、あれをするか」という問いではないことに注目してください。「誰が行くか」という問いなのです。神は「誰がふさわしい資格を持っているか」や、「誰が十分な技能を持っているか」とも尋ねられません。それらが重要でないというわけではありませんが、それよりも重要なことがあるということです。
イザヤ書6章で、神は「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」という問いをイザヤに投げかけられます。するとイザヤはためらうことなくこう答えます。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」しかも彼は、神が何のために自分を遣わそうとしているのかさえ知らないまま、そう答えたのです。ここには、本当に重要なことが示されていると思います。「誰を遣わそうか」という問いに対して、神があなたの人生に何を求めておられようとも、ためらうことなく力強く「はい!」と答えられるような人になりたいとは思いませんか。神はどのようにして、私たちを、神が求められることにためらうことなく「はい」と言える段階に導いてくださるのでしょうか。
そして、これは実際、私たちの職業や奉仕の働きに限られた問いではありません。日常生活にも当てはまる問いです。一日に起こることすべてを予測することはできません。神は毎日、私たちの目の前に置かれる事柄に忠実に応答するようにと、私たちを日々召してくださっているのです。
先月の旅行で、私はこれまで会ったことのなかった親戚たちと昼食を共にしました。その会話の中で、妻リアンの、はとこの一人が人間関係について話してくれました。私は牧師であることを伝え、その立場から彼らに語ることができました。もっと大胆に話すべきだったかもしれませんが… ここで言いたいのは、こうした状況にためらうことなく応答できる人でありたいということです。しかし、それは多くの人にとって、自然にできることではありません。
私たちは「主よ、私に何をしてほしいのですか」という問いの答えを知りたいと思います。しかし神はこう問われます。「あなたは、わたしが求めることは何でもする覚悟があるか。」 誰かに意見を求められて答えたのに、その答えが気に入らないと言って批判された経験はありませんか?そんな時、「そもそもなぜ聞いてきたのか」と思ってしまうものです。
神は、私たちが神の求めることは何でも、心を開いて喜んで行おうとする者となることを望んでおられます。もし実行する気がないのなら、神に「何をすべきですか」と尋ねることに、いったい何の意味があるでしょうか。
ですから今朝、私が問うのは「どうすれば神の求めることを何でも喜んで行う人になれるか」という問いではありません。なぜなら結局のところ、私たちの心を変えるのは、私たち自身の力ではなく、神が私たちの人生の中で働いてくださるからなのです。
私が問いたいのは「神は、どのようにして私たちを、神ご自身の求めることを何でも喜んで行う者へと備えてくださるのか。」ということです。
このことについて、イザヤ書6章から見ていきたいと思います。
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」4 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」 (イザヤ書6章1~8節)
ここでの背景は、ユダの王ウジヤが亡くなったということです。彼は52年間ユダの王として治めました。マナセに次いで、ユダの歴史の中で最も長く王位にあった人物です。多くの民にとって、ウジヤは自分たちが知っている唯一の王だったのです。ですから、この悲報に民がどのような思いを抱いたか、想像できるでしょう。イザヤがどのような心境だったかも想像できるでしょう。
このような背景の中で、神はイザヤの視点を新しくし、正しく整え直されるため、イザヤにご自身を現されます。神はイザヤに、ユダの本当の王は誰なのかを思い起こさせる幻をお与えになったのです。神がイザヤを遣わす前に、まず神に対する彼の視野を広げることで、彼を備えておられることが見受けられます。私は、これこそが神がご自身の民を、ためらうことなく召しを受け入れられるように備えてくださる方法だと思います。
1.神は、私たちの神に対する視野や理解を広げることによって、私たちを備えてくださる。
ここ数ヶ月間、教会では、神の偉大さ、神がいかに偉大であるかをより深く理解すること、というテーマを取り上げました。繰り返し同じことを言っているように聞こえるかもしれませんが、これは私たちの生活において極めて根本的な部分なのです。
なぜ神は、すぐにイザヤに使命を告げなかったのでしょうか。なぜ「イザヤよ、私のためにこれをしてほしい。行く覚悟はあるか」とすぐに言われなかったのでしょうか。それこそ、神がモーセになさったことではなかったでしょうか。モーセの応答には、私たちの多くが共感できるものがあると思います。モーセは神の召しをためらいました。言い訳を並べ立てました。自分には備えがないと感じました。彼には自分自身と自分の至らなさしか見えていなかったのです。
神はこの人生において私たちのために多くのことを備えておられますが、私たちはしばしば、自分がその使命にふさわしいかどうかを見極めるために、あらかじめ条件を知りたいと思ってしまいます。しかし神は「いや、あなたの能力よりもはるかに大切なことがある。目の前の任務そのものよりも、はるかに大切なことがあるのだ」と言われます。
モーセはすべてを自分中心に考えました。しかしイザヤは、物事を違った視点で理解していました。
この二つの物語は、二人の応答の仕方がまったく異なっていたにもかかわらず、実は同じメッセージを伝えています。そのメッセージとは何でしょうか。それは、神が私たちを働きに召されるとき、大切なのは「私がどんな人間であるか」ということではなく、「神がどのようなお方であるか」ということなのです。
イザヤにとって、何が違いを生んだのでしょうか。
その違いは、どこに焦点を置くかにありました。モーセは自分自身を見つめ、自分の弱さを見つめました。イザヤは神を見つめ、神の聖さと力と栄光を改めて認識したのです。
これこそ、神が私たちをためらうことなく信仰によって歩めるように備えてくださる方法です。神はまず、私たちの神に対する視野や理解を広げることから始められます。神はイザヤに幻の中でご自身を現され、その結果、イザヤの神に対する理解は大きく広げられました。彼は神のことが頭から離れなくなりました。神に対する見方が、「自分には足りない」という思いを覆い尽くしたのです。
あなたの神に対する見方は、あなた自身の足りなさを覆い尽くしていますか?
神は、私たちがより深い信仰をもって歩むために、神のより大きな姿を捉えることを望んでおられます。神は、私たちが自分の使命そのものや、自分の弱さに焦点を当てることは望んではおられません。神は私たちが神ご自身に焦点を当てることを望んでおられるのです。そして神は、私たちが当初は完全には理解できなかった方法で、それを実現してくださるのです。
神はどのように私たちの信仰を広げてくださるのでしょうか。「もし私もイザヤと同じ幻を見たなら、私の信仰ももっと強くなるだろうに。」と言う人もいるかもしれません。皆さんの中で、そのような幻を見たことのある人がどれほどいるでしょうか。おそらく誰もいないと思います。しかし、聖書全体を通して真実な原則があります。それは、神を知れば知るほど、私たちの人生は変えられていくということです。それは必ずしも神の御座での体験である必要はありません。
ペテロのことを思い出してください。彼が網を降ろすと、イエスはそれを満たされました。彼の応答はどうだったでしょうか。彼はひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。(ルカ5:8)」と言いました。
トマスはどうでしょうか。彼はイエスがよみがえられ生きておられることを疑いました。しかしイエスの傷跡に触れた後、彼は「ああ、私の間違いでした。疑ってごめんなさい。」とは言いませんでした。そうではなく、イエスに向かって「私の主、私の神よ。(ヨハネ20:28)」と言ったのです。
彼らは御座におられる神の幻を見たわけではありません。彼らはただ、自分たちの考え方を変えられ、整え直されるような形で神を体験したのです。その体験は最終的に神への礼拝を深めることにつながったのです。
ここで大切なのは、奇跡や幻そのものにとらわれないことです。それらは本質ではありません。大切なのは、神があらゆる方法を用いて、私たちの神に対する理解を広げてくださるということです。奇跡や幻そのものが重要なのではありません。重要なのは、それらが何をもたらすかということです。私たちが神様を経験する一つひとつの出来事は、神に対する見方を広げ、最終的には神への信仰を深めることによって、私たちの考え方を新しく整え直すことを目的としています。
神が私たちの神への理解を広げてくださる方法は、必ずしも心地よいものではありません。私自身の体験からすると、人生の困難に直面する度に、神はご自身についてさらに何かを明らかにしてくださいます。困難とは白内障の手術のようなものだと確信しています。それは私たちの目を開き、より多くのものを見えるようにしてくれます。困難とは補聴器を得るようなものです。それは私たちの耳を開き、より多くのことを聞こえるようにしてくれます。
人生の困難を、必ずしも懲らしめとして片付けてしまわないでください。困難はしばしば、神への理解を広げ、最終的に神への信仰を深めるための入り口となります。なぜなら、より深い神への信仰を持つことこそが究極の目的だからです。
あなたの人生において、神をより深く知りたいですか? より強い信仰を持ちたいですか?神には試練の背後に、より大きな目的があることを知って、その試練を受け入れてください。しかし、神に対する見方を広げるためにわざわざ試練を求めに行く必要はありません。
先ほどの問いに戻りましょう。皆さんの中で、イザヤが体験したような幻を体験した人はどれほどいるでしょうか。その答えに驚くかもしれませんが、本当の答えは、キリストに従う者として、私たちは皆、いわば神の幻をすでに体験しているということです。それはキリストの栄光の中に見られます。ヨハネは福音書や手紙の中で、そのことについて頻繁に記しています。イエスは肉体をとられた神の栄光です。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。(ヨハネ1:14)」
私たちには、イザヤが見たような御座に座わっておられる神の幻は必要ありません。私たちの目の前には、聖書を通してイエスの姿がはっきりと示されているからです。福音書を読んでみてください。イエスについて深く学び思いを巡らせてみてください。そうすれば、イザヤのように肉眼で見るのではなくとも、神の心、愛、あわれみ、恵みについての、より深く知ることができます。福音、私たちの救い、私たちのためのイエスの苦しみと犠牲…それはペテロの第一の手紙によれば、御使いたちさえも見たいと切望した「幻」なのです。
神はいつも、私たちが神への視野を広げていけるように導いてくださっています。そして、そのために神は、さまざまな方法を用いられるのです。モーセには燃える柴を通して、イザヤには天の御座を通して、ペテロには漁をしている最中に、そしてトマスには疑いの中で、ご自身を現されました。しかし何よりもはっきりと神様がご自身を現されたのは、イエス様の生涯と死を通してなのです。
「神が私たちを働きに召されるとき、大切なのは「私がどんな人間であるか」ということではなく、「神がどのようなお方であるか」ということなのです。」 ですから、神は常に、私たちが何を召されようとも神を信頼できるように、私たちの神に対する視野を広げようと働いておられるのです。
神が私たちの人生への使命のために私たちを備えてくださる第二の方法は、イザヤが幻を見た際の反応に示されています。
2.神は、私たちに自分の必要をより深く自覚させることによって、私たちを備えてくださる。
イザヤはこう記しています。
「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(イザヤ6:5)」
イザヤにとって、神についての見方は、彼を悔い改めに至るまでへりくだらせるようなものでした。彼は、自分のように罪深い者が神の御前に立つに値しないことに気づいたのです。
私たちが神の聖さについて正しい認識を持ち始めると、それによって自分自身の罪深さが浮き彫りになります。私たちが何者であるかと、神が何者であるか…その違いは、あまりにも大きいのです。
イザヤの体験は、自分自身と神との間にある大きな隔たりを悟らせました。イザヤが神の聖さをよりはっきりと見るようになるほど、自分自身の罪深さも、よりはっきりと見えるようになったのです。
そして私たちにとっても、神は私たちの罪深い本性をより明確に明らかにすることで、私たちを備えてくださるのだと思います。私たちはもろく、感情的にも霊的にも弱い存在です。絶えず誘惑に負けてしまいます。恐れや怒りをもって状況に反応してしまいます。そして、結局のところ、自分の力だけに頼っていると、私たちはどれほど切実に神様を必要としているのかに気づかされます。
皆さんにも、自分の罪深さを自覚し、私たちが礼拝しているこの聖なる神を目の当たりにする時、罪の自覚に突き動かされ、悔い改めに至った経験があると思います。それは良いことであり、私たちが常に目指すべきことです。しかし、悔い改めることをやめた瞬間とは、私たちと神との間のこの大きな隔たりを見失い始める瞬間なのです。自分の善さを誇張し、神の聖さを軽視し始めると、私たちは「神の少しの助けさえあれば、自分の力でやっていける」と考え始めるのです。
しかし、イザヤは神の御姿を目の当たりにして深く心を動かされ、自分には神の助けが少しだけ必要なのではなく、神なしでは何もできないのだと悟りました。
ですから、聖書がしばしば、神が高ぶる者をへりくだらせることについて語っているのも不思議ではありません。それは、神が人々を虐げ、抑えつけようとしているわけではありません。神が私たちに、神なしでは神が与えてくださる働きを成し遂げることはできないということを悟ってほしいからなのです。神は私たちに、自分自身を頼るのではなく、神をもっと信頼するよう備えてくださっているのです。悔い改めは、私たちの生活の中で当たり前のものとなるべきです。なぜなら、悔い改めは、私たちがどれほど切実に神を必要としているのかを、常に自覚させてくれるからです。
そこで、皆さんに考えていただきたいことがあります。最後に自分の罪深さについて神に悔い改めたのはいつでしたか。ただ漠然とではなく、具体的なことについてです。あなたが最後に自分の具体的な罪を神に告白し、悔い改めたのはいつでしたか。
告白と悔い改めを、神との歩みにおける日常の中で当たり前のものにしてください。それは、神様が私たちの人生に与えてくださる召しに、ためらうことなく応えるための備えとなる大切な一歩だからです。
しかし、私たちは単なる悔い改めだけで終わってはいけません。もしそこで立ち止まり、自分の罪深さや罪責感の中に浸り続けてしまうなら、私たちは神が私たちの人生に与えてくださる働きを成し遂げることができなくなってしまいます。
だからこそ、イザヤの体験において次に目にするのは、この第三の準備の段階であり、それは次の通りです。
3.神は、私たちが神の恵みを体験できるよう、私たちの必要を明らかにしてくださる。
すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」(イザヤ6:6-7)
多くの人が、罪責感や恥の感情に囚われてしまい、そこから抜け出すことが難しいと感じています。その結果、彼らはその罪責感を抱えたまま、神にさらに熱心に仕えることで償おうとしてしまいます。自分の罪を償わなければならないという強い衝動に駆られるのです。しかし、それは神に仕える上で健全な動機でもなければ、聖書的な動機でもありません。
パウロは、自分が神に仕えるのは「キリストの愛に駆られて」いるからだと述べています。
イエスが私たちのために死なれたのは、無駄だったと思いますか? もっと一生懸命働き、奉仕することで、自分の罪を償えると思いますか?正直なところ、それは神への侮辱です。
神は私たちに御自身の恵みを受け取ってほしいと願っておられ、私たちはそれに値しないという事実を受け入れる必要があります。私たちは単に値しないのです。ですから、それに値しようとする努力をやめる必要があります。神は、罪悪感からではなく、恵みから奉仕することを望んでおられます。
結局のところ、すべては福音に帰着します。罪責感は自分自身に焦点を当てます。恵みは神に焦点を当てます。そして私たちが福音を深く受け入れれば受け入れるほど、キリストの御業をより深く理解するほど、神をより鮮明に見るようになるのです。
イザヤは新しい光の中で神を見、謙虚になり、神の赦しを受け取り、その喜びに動かされて、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言ったのです。
イザヤは自分が何に対して「はい」と言っているのかさえ知りませんでした。今日の箇所には書かれていませんが、神がイザヤに与えた使命は、自分の民の所へ行き、彼らを非難することでした。誰からも拒絶されることを自ら招き、その結果として孤独に直面するような状況に、自分から踏み込んでいくことがどんなことか、考えてみてください。もし神が最初にその使命についてイザヤに伝えていたなら、彼はどう応答していたでしょうか。それは誰にも分かりません。しかし神様はイザヤを、「神様が何を求められても、私は行きます」と言えるところまで導かれました。それこそが、あなたが持ちたいと願う信仰ではないでしょうか。
このような備えを通して、神は私たちの神への信頼を築こうとしておられます。それは、私たちが神の遣わすところどこへでも、喜んで行けるようになるためです。
人々が神の使命や召しを受け入れることをためらう理由はいくつかあります。その中の一つの理由は、恐れです。これは、キリストに従いたいと熱心に願っている人々にとって、より難しい問題ではないかと思います。神が私たちに、自分が苦手とするようなことを求められるかもしれないという恐れです。
もし神が、誰かを赦すようにと求められたらどうしよう。
もし神が、何かを手放すようにと求められたらどうしよう。
もし神が、行きたくない場所へ行くようにと求められたらどうしよう。
もし従うことが自分にとって不快なものだったらどうしよう。
もし神に従うことが拒絶を意味するのだったらどうしよう。
もし神のご計画が、自分の夢とは違うものだったらどうしよう。
イザヤは決してこのような質問を口にしないことに注目してください。イザヤが一切、質問をしないのは、なぜでしょうか?それは、神がより良いものを彼に与えられたからです。神はイザヤに、神ご自身の幻をお与えになったのです。
神は、これから私たちに何を求められるのかを、いつも教えてくださるわけではありません。しかしその代わりに、神は私たちが神ご自身をより深く見ることができるようにしてくださいます。それによって、神に対する私たちの視野が、未知への恐れを上回るようになるのです。
そしてもし私たちが神の使命そのものではなく、神ご自身を追い求めるなら、私たちに対する神の使命は成し遂げられるでしょう。なぜなら私たちは、力強く愛に満ちた神を信頼しているからです。それは、私たちの焦点が自分自身ではなく、神に向けられているからです。
なぜなら、私たちにとって最も必要なのは、神が私たちをどこへ遣わそうとしているかを正確に知ることではないからです。最も必要なのは、神が召される時、私たちがすでに行くための備えができた者となっていることなのです。
神は最終的に、特定の任務よりもはるかに大きなことのために私たちを備えておられます。神は私たちを、神を信頼する者となるようにと備えておられるのです。
そして神は、私たちに神ご自身についてのより大きな幻をお与えになることによって、それをなしてくださいます。なぜなら私たちは、私たちを召しておられるのがどなたであるかを知る必要があるからです。時には、困難な時期を経験することで、最終的に神が慈しみ深く、愛に満ちたお方であることを理解できるようになることもあります。
神は私たちを、自分自身の罪深さと向き合わせてくださいます。それは、私たちは、自分の力だけでは成し遂げられないと知る必要があるからです。私たちは、神を切実に必要としているのだということを自覚しなければならないのです。
そして神は、私たちに神の恵みを与えてくださいます。なぜなら、私たちを召しておられる神が、ただ聖く力強いだけの方ではなく、善であり、あわれみ深く、恵み深いお方であることを知る必要があるからです。神はイエス・キリストにおいて、私たちへの愛を示してくださいました。私たちは、神が一度も打ち砕かれたことのない人を遣わされるのではなく、神自身の恵みによって回復された人を遣わされるということを理解する必要があります。そして、もし神が、私のような罪人を回復してくださることができるなら、私は何についても神を信頼することができます。そして私たちには、神が求められることには何でも、未知のことに対してさえも「はい」と言える信仰を持つために、これらのことが必要なのです。
私たちは、神がこれから何を求められるのかを知らないかもしれません。明日何が起こるのかを知らないかもしれません。従うことにどれほどの代償が伴うのかを知らないかもしれません。もし自分の人生を完全に神に明け渡してしまったら、神は自分がやりたくないことを求めてくるのではないかと、恐れることさえあるかもしれません。しかし、神は私たちに未来を知ることを求めておられるのではありません。神はただ、神を信頼することだけを求めておられるのです。
ですから、その時が来たら、神があなたの予想していなかったものを、あなたを不快にさせるものを、あなたが自分にできると思う限界を超えて踏み出すことを求めるものを、あなたの目の前に置かれる時、今、神があなたの人生の中でなしておられるすべてのことは、あなたがこう言えるように備えているのだということを知ってください。
「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
なぜなら、神様が私たちに何を求めてこられるか、すべてを知ることはできないからです。しかし、私たちには、その求めをなさる神様を知っています。そして、神様は私たちの信頼に値するお方なのです。
セドリック・トンプソン氏は、元NFLのプロフットボール選手(セーフティ)であり、彼の弟は2017年にシーホークスからドラフト指名を受けました。彼は引退後、自身の信仰や家族について発信するためにYouTubeチャンネルを開設しました。先日、あるショート動画が私の目を引きました。それは娘たちと一緒に「Trust Fall(誰かが受け止めてくれることを信じて後ろ向きに倒れること)」を行うシンプルな動画ですが、Trust Fallの後に彼が語った言葉にぜひ耳を傾けてほしいと思います。 <ショート動画>彼は毎回、必ず娘を受け止めます。神様もまた、私たちが信頼して身を委ねるたびに、必ず受け止めてくださいます。Trust Fallの後、彼は「さあ、歩こうか?」と言いました。「歩くこと」の前に「信頼」があります。神様は、私たちが歩むことができるように、まず神様への信頼を築いてくださっているのです。人生の使命へと急いで走り出さないでください。まず神のもとへ走ってください。なぜなら、真の使命はそこから始まるからです。「誰を遣わそうか? 誰が私たちのために行ってくれるだろうか?」―遣わされるのは、聖く力強い、愛に満ちた神に心を奪われた人なのです。


