「あなたが手に持っているものは何か」
出エジプト記4章1~5節
マーティー・ドング兄
私たちは今「神の問い」というメッセージシリーズを続けています。
- 「あなたは、わたしをだれだと言いますか」― 神はご自身を明らかにされる
- 「あなたはどこにいるのか」― 神は恵みをもって罪人を探し求めてくださる
- 「主にとって不可能なことがあるだろうか」― 不可能なことが可能になる
- 「あなたが手に持っているものは何か」― 平凡なことが非凡なものとなる
- 「だれを、わたしは遣わそう」― 聖さが私たちの意志を変える
- 「良くなりたいか」― 神は私たちを回復してくださる
- 「あなたは、わたしをだれだと言いますか」― イエスとは誰か
- 「あなたはわたしを愛するか」― 失敗から忠実さへ
1.物語の背景
今日は、出エジプト記4章1~5節の核心に迫ります。この箇所は、「あなたが手に持っているものは何か?」という、私たち一人ひとりに向けられた問いについて考えていきます。皆さんの中には「私には大したものは何もありません」と思っている方もいるかもしれません。
この聖書箇所から、モーセが取るに足らないと感じていたものを、神がどのように用いられたかを見ていきましょう。
出エジプト記 4章1〜5節
1 モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」 2 主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」 3 すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。 4 主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。 5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
この物語の背景には、モーセが神と対話し、イスラエルの民を導くことができないと訴えている場面があります。これはモーセにとって、いわば慢性的な問題でした。かつてエジプトの王子であった彼は、奴隷だった人たちを集めた集団の指導者となりました。民は、自分たちを解放し、養い、守ってくださった神への信仰が欠けており、同じ場所をぐるぐるさまよい続けることになります。しかし、イスラエルの民と同様に、モーセにも信仰が欠けており、神は彼が指導者としての務めに立ち上がれるよう助けてくださいます。
「あなたが手に持っているものは何か。」
今日の聖書の箇所で、神はモーセに「あなたが手に持っているものは何か。」という、単純でありながら奥深い質問を投げかけられました。神はモーセが何を持っているかを正確に知っておられたので、この質問は知らないから尋ねたわけではありません。むしろ、モーセに自分が持っているものと、それがどのように用いられ得るかを考えさせるための問いでした。この問いは今日の私たちにも関わりがあります。なぜなら、モーセと同じように、私たちもしばしば自分の手にあるものの価値を過小評価してしまうからです。
神は、すでに自分に託されたものを神に委ねる平凡な人々を通して、その並外れた御計画を成し遂げられるのです。
2.要点は何か?-平凡なものが神の手の中で非凡なものになる
励まし①―神は、すでにあなたの手に置かれているものから始められる。
1 モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」 2 主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」
神はモーセが持っていた杖を用いられました。
モーセは羊飼いでした。彼が持っていた杖は、羊飼いにとって平凡な道具でした。羊を導くため、捕食者から身を守るため、そして長い道のりを歩く際の支えとして使われていました。モーセにとって、この杖は単なる実用的な道具であり、日常生活の一部に過ぎませんでした。しかし、神はそこに違うものを見出されました。
杖というこの平凡な羊飼いの道具は、神によって、紅海を分け、岩から水を湧き出させ、アマレク人との戦いに勝利をもたらすために用いられました。それは、モーセが掲げている限りイスラエル人が勝利するという、神の約束の象徴として、モーセが掲げたあの杖でした。
モーセの手の中では、その杖は単なる杖に過ぎませんでした。しかし、神の手の中では、それは救いと勝利をもたらす力強い道具となったのです。モーセが指導者として歩む間、この杖は紅海を分け、太陽を止め、水を見つけ出すなど、数多くの働きに用いられました。この杖の変化は、神が、私たちの生活の中の平凡なものを、非凡な方法で用いることができるお方であることを思い出させてくれます。重要なのは、その物が何であるかではなく、誰がそれを用いられるかです。私たちが持っているものを神に委ねるとき、それがどんなに小さく、取るに足らないように見えても、神はそのものを御自身の栄光と御国の拡大のために用いてくださいます。
神はご自身のみこころを成し遂げるために、壮大なものや非凡なものを必要とはされません。神は、平凡なもの、見過ごされているもの、過小評価されているものさえも用いてくださるのです。神が必要とされるのは、私たちが持っているものを神の御手に委ねようとする意志だけです。
たとえどれほど小さく、取るに足らないものであっても、神は、私たちの技能や賜物、持ち物を受け取り、ご自身の栄光のために用いてくださいます。私たちに必要なのは、それらを神に委ね、神がそれらを通して働かれることを認める意志だけです。モーセの杖のように、私たちの手にあるものは、神の手の中で力強い道具となるのです。
適用:私たちは、自分にないものを欲しがることに、多くのエネルギーを費やしてしまいます。
「もし……だったら」
- もっと才能があったら
- もっと社交的だったら
- もっと若かったら
- もっと年を重ねていたら
- もっと裕福だったら
- もっと良い教育を受けていたら
神はそのようなところから働きを始められることはほとんどありません。すでに私たちに託してくださったものから働きを始められるのです。
励まし②―神は、すでに私たちの手にあるものを手放すよう求められる。
3 すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。 4 主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
とても興味深いことに、神が杖を変えられる前に、まずモーセはその杖を手放さなければなりませんでした。そして神は、「その尾をつかめ」と言われました。モーセは、自分を恐れさせたものを、もう一度手に取るほどに神を信頼しなければなりませんでした。ここで大切なのは、奇跡そのものではありません。明け渡すことと、信頼することです。
神はしばしば、私たちが頼りにしているものそのものを手放すよう求めておられます。
- 私たちのキャリア
- 私たちの計画
- 私たちの評判
- 私たちの安定
例)私が中国に行くことになった時、自分に安心感を与え、自分自身を形作っていたものを手放さなければなりませんでした。
モーセが手放したときにはじめて、神はご自身が何をなさろうとしているのかを示されたのです。
励まし③―神は明け渡された人生をご自身の栄光のために変えられる。(4章5節、17節、20節)
5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
目的を語るこの一節に注目してください。「…彼らが信じるため…」
この奇跡は決してモーセのためのものではありません。それは、神がご自身を明らかにされるためなのです。
かつてモーセを犯罪者や裏切り者として縛りつけていた杖は、彼の羊飼いの杖となりました。
適用:私たちが神を信じ、自分自身を神に明け渡すとき、私たちの人生は神の使命のための道具となります。それは私たちが非凡だからではありません。神が非凡だからです。神こそが神なのです。神は平凡なものを取り、それを非凡なものにされます。
3.問題は何か?-私は自分が何を持っているか分からない
この説教は「神の問い」というメッセージシリーズの一部ですので、神の問いは実は杖そのものについてではないという点を強調したいと思います。これまでのメッセージでの問いと同様、これは診断的なものであり、真実を明らかにするものです。神はモーセの心の内をあらわにしておられるのです。このやり取りは、「神の問い」というテーマに見事に当てはまります。
神の問いは常に何かをあらわにします。ここでの問いは、神がすでに備えてくださったものよりも、自分に欠けているものに目を向けてしまうモーセの傾向をあらわにしています。
もしかすると、それはあなたの人生でも起きていることかもしれません。神があなたを通して何をなさろうとしているのか、と疑問に思っているかもしれません。神は実在し、あなたを知り、あなたが神に仕え、神に栄光を帰することを望んでおられるという期待を持ってください。
4.違いは何か?-神は私たちを用いたいと願っておられる
私たちは皆、手に何かを持っています:それは才能かもしれませんし、技術、資源、あるいは経験かもしれません。多くの場合、モーセが自分の杖に対してしたのと同じように、これらのものを平凡で取るに足らないものとして片付けてしまいます。神がそれらをどのようにご自身の栄光のために用いてくださるのかを見過ごしてしまうのです。しかし、私たちがそれらを神に明け渡すとき、神は御国のための力強い道具へと変えてくださるのです。
あなたが持っている才能と技能:あなたはそれらをたいしたものではないと思っているかもしれません。大きな視点で見れば、役に立たないとさえ思っているかもしれません。しかし、モーセの杖を思い出してください。それはただの木の棒でした。しかし神の手の中では、それは救いの道具となりました。あなたの才能と技能は、どんなに小さく取るに足らないものに見えても、あなたが想像もできないような方法で神に用いられるのです。
あなたが持っているもの:それは時間、お金、あるいは物質的な所有物があるかもしれません。それについても、たいしたものではないと思っているかもしれません。しかし神はそれほど多くを必要とはされません。神はあなたが持つわずかなものを取り、それを増やすことができます。あなたの持っているものを神にお委ねするとき、それは人々を祝福し、神の御国を前進させるために用いられます。イエスはご自身の生涯を通して、わずかなものを多くのものへと変えられました。水をぶどう酒に変え、一人の少年のささやかな昼食を15,000人を養うご馳走に変えられました。また、11人の平凡な人々を用い、教会へと造り変えられました。
あなたの経験:あなたはこれまでに試練や苦難を経験してきたかもしれません。失敗をしたり、過ちを犯したりしたこともあるでしょう。しかし、神はそのような経験さえも用いることのできるお方です。神はあなたの経験を用いて、同じような状況にある他の人々を慰めることができます。神はあなたの過ちを用いて、他の人々を教えることができます。神はあなたの失敗を用いて、他の人々にご自身の恵みと憐れみを示すことができます。
それを平凡で取るに足らないものとして片付けないでください。むしろそれを神に明け渡しましょう。神ご自身の栄光のために用いていただきましょう。覚えていてください。神は備えられた人を召されるのではなく、召された人を備えてくださるのです。そして神は、あなたが手にしているものを何でも用いて、あなたに備えを与えてくださいます。
私たちは皆、「杖」を持っています:それは私たちの才能、技能、経験、知識、人間関係、時間、あるいは所有物かもしれません。モーセのように、私たちはそれらが十分でないと考えるかもしれません。あまりにも平凡で、ありふれていて、取るに足らないものであり、何の変化も生み出せないと感じるかもしれません。しかし神は、私たちが不十分だと思うところに可能性を見出されます。私たちが障害物だと思うところに、機会を見出されます。私たちが欠けや不足しか見えないところに、神は用いることのできる備えを見ておられるのです。
神が、モーセを通してなさったように、私たちを通して不可能なことを成し遂げてくださるよう信じましょう。
覚えておいてください。大切なのはあなたが手に何を持っているかではなく、神がそれで何をなさることができるかです。平凡なものを非凡な目的のために用いる神の力を過小評価しないでください。たとえそれがどれほど小さく、取るに足らないように見えても、私たちが持っているものを軽視してはいけません。神はそれをご自身の栄光のために必ず用いてくださいます。
私が宣教活動を支援するのが好きな理由の一つは、神がどのように必要を満たし、人々の心を開いてくださるのかという、驚くべき御業を実際に見聞きすることができるからです。
(例:タカノさんの健康の証)
聖アウグスティヌスの言葉:「信仰とは、まだ見ぬものを信じることである。この信仰の報酬は、信じるものを見ることである。」
あなたの手にある『杖』を神がどのように用いられるのか、見てみましょう。


