「良くなりたいか(癒されたいか)」 ヨハネの福音書5章1~9節 マイク・カーツ師 私たちは誰しも、人生の中で「意味のある変化はもう起こらない」と諦めてしまっている領域があるでしょう。心のどこかで半ばあきらめて、「これはもう決して変わらない」と思い込んでしまっている領域があるでしょう。あなたの人生の中で、意味ある変化を期待するのやめてしまったようなことはありますか? ヨハネによる福音書第5章に登場するある男性は、おそらく誰よりもこのことを深く理解していたのではないでしょうか。彼は歩くことができず、ベテスダの池で38年もの間、癒やしを求め続けていました。この物語が異例な理由は、彼が長い間癒やしを求め続けていたことではなく、イエスがこの人の必要にどう応えられたかにあります。ヨハネ5章のこの物語を読むたびに、私はいつもイエスが彼に投げかけた質問に心を打たれます。その質問は、普通、このような状態にある人に投げかけるような質問ではありません。イエスの質問は、聞きようによっては非常に失礼に聞こえる可能性があります。 話を進める前に、一言お伝えしたいことがあります。この場には、何年も肉体の癒やしを祈ってきた方々がいることを私は知っています。あらゆる治療法を試みてきた方もいるでしょう。誠実に神を信頼してきたのに、望んでいた癒やしがまだ与えられていない方もいるでしょう。この箇所は、あなたの苦しみが続いているのは信仰が足りないから、あるいは努力が足りないからだと言っているのではありません。神が癒やしてくださることもあります。しかし、パウロのように「とげ」を負い続けながら、その中でも神の恵みが十分であることを知る場合もあります。このメッセージの意図は、皆さんに自由をもたらすことにあるのだということを、どうかご理解ください。 この物語は、単に癒やしを必要としている一人の男性についての話ではあません。それは、一見すると当たり前に思える問いが、私たち自身に問いかけ始めたとき、実は深い意味を持つことになる、そのような問いについての物語です。 ヨハネによる福音書5章1~9節を読んでみましょう。 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。(ヨハネの福音書5章1~9節)」 1.「良くなりたいか。(癒されたいか。)」 この質問がなぜこれほど不自然に感じられるかというと、それはまるで侮辱的のように聞こえるからではないでしょうか。もちろん彼は癒やされたいに決まっていますよね?この男性は38年間障がいを抱え、来る日も来る日もこの池に通い続けてきたのです。当然、癒やされたいはずです。問題は、なぜイエスがこのような不自然な質問をされたのかということです。「あなたが長い間ここにいると聞きました。癒やしてあげましょう」と、ただそう言えばよかったのではないでしょうか。しかしイエスは代わりに、「あなたは良くなりたいか(癒やされたいか)」と尋ねられました。実に興味深い質問です。もちろん彼は癒やされたいに決まっています。そうでなければ、なぜこれほど長い間、池のそばにいたというのでしょうか。 なぜイエスが、一見当たり前に思えるこの質問をされたのか、私には確かなことは言えません。聖書の本文もそれを語ってはおらず、明確な手がかりもほとんどありません。しかし、この質問は私たちに即座に答えを探そうという気持ちを抱かせます。この質問は、この男性だけでなく、私たち自身の弱さにも向けられているのだと思います。少なくとも私にとっては、この問いはこのように問いかけてきます。私は何かに慣れてしまい、神が求めておられるかもしれない変化を追い求めるのではなく、不健全な状態に折り合いをつけて諦めてしまっているのではないか、と。ひとまず、この問いを自分自身に当てはめて考えてみてください。少なくとも私にとっては、何かと長い間向き合い続けてきた結果、そのことを軸に人生を築いてしまっているのではないかと、考えさせられる問いなのです。 この男性は38年間、この病状とともに生きてきました。ここにいる皆さんの多くは、それほど長く生きてすらいないかもしれません。しかし、これまでの人生のほとんどを体の自由を奪う状態を抱えてすごしてきたことを想像できますか?実のところ、人がこれほど長い間、そのような試練を乗り越えて生き延びる唯一の方法は、それと共に生きる道を見出すことなのです。この男性は自分の障がいを中心にした生き方を築き上げました。池は彼の日課の一部でした。彼は適応することを学んだのです。それは彼が癒やされたいと思わなくなったという意味ではありませんが、それとともに生きる方法を学んだのです。そして、そのこと自体には何の問題もありません。 40年間、障がいとともに生きてきた人にとって、その状態を受け入れることは諦めというよりは、むしろ信仰の美しい表れであるかもしれません。その人は、心から「これは神が私に与えてくださった人生だ。忠実にこれを生きていこう」と言えるところまでたどり着いたのかもしれません。それは諦めではありません。信仰によって生きるということです。幼い頃に視力を失ったマリッサのことを思います。人生そのものが忠実さの表れである人といえば、まさにマリッサがそうです。それこそが信仰の成熟ということなのです。 これは身体的な障がいに限った話ではありませんが、ある状況と長い間向き合っていると、その状況にすっかり慣れてしまい、何かを変えることはできないのかと自問することさえやめてしまうことがあります。そして、「自分には変われない」と言う人の中には、実際にはそうではない人もいるかもしれません。確かに、私たちが受け入れて生きていくことを学んできたことの中には、変えるのが非常に難しいものもあるのです。 次のような言葉に、共感できる方もいるかもしれません。「私はそういう人間なんだ。」「昔からずっとこうだった。」「どうすることもできない。」「うちの家族はこういうものなんだ。」「それを受け入れて生きることを学んだ。」私たちは誰しも、こうした言葉を口にしたことがあるのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。そして実際問題、私たちの人生には本当に変えられないこともあります。身体的な状態や環境を変えられないこともあります。過去を変えることはできません。他の人やその人の選択を変えることもできません。それは現実です。 しかし、もう一つの現実は、変えられないことがあるからといって、変えることができることまで変えられないと思い込んではならないということです。ですから、「私はそういう人間なんだ。」とか「それを受け入れて生きることを学んだ。」という思い込みは、ほとんどの人にとって単に真実ではないのです。実際、それはあまりに長い間その状態の中で生きてきたために至った結論であることが多いのです。自分の状態を人生の一部として当たり前だと受け入れてしまったのです。実際には変わりたくないわけではなく、あまりに慣れてしまったために、変えようとする発想自体が浮かばなくなっているのです。 (何かに慣れてしまい、もはや気づかなくなったことの例え:イラスト) これは、私がもはや全く気づかなくなってしまった例です。それがあっても、うまくやっていく方法を見につけてしまったのです。 私たちの人生の中にも、同じようなことがあります。たとえば、 自分の短気さを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。 自分の苦々しい思いを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。 自分の頑固さとうまく付き合いながら生きることを覚えてしまった。 自分の怒りを抱えたまま、どう生きていくかを覚えてしまった。 壊れてしまった人間関係を抱えたまま生きることを覚えてしまった。 自分の恐れを抱えたまま生きることを覚えてしまった。 そして、こうした状態が何年も続いていくと、私たちの中で、ある良くないことが起こり始めます。変わろうとすることをやめてしまい、ただ「どうやってうまく対処するか」を身につけるようになるのです。 …


