8/23 Message (Japanese Translation)

In Uncategorized by mike

「あなたの弟はどこにいるのか」

創世記4章1~15節

マイク・カーツ師

何かをずっと先延ばしにし続けて、ある日問題がひどく悪化してしまい、「もっと早い段階で対処しておけばよかった」と後悔した経験はありませんか?それは、車のオイル交換を先延ばしにするようなものです。しばらくは問題なく済みます。車は走り続けますし、何もおかしいところはないように見えます。だから、先延ばしにし続けてしまうのです。しかし、やがてその怠慢が自分を追い詰め、本来なら比較的安価で済んだはずのオイル交換が、非常に高額なエンジン修理になってしまうことがあります。

結婚生活でも同じことが起こり得ます。最終的に離婚に至った初婚の場合、離婚までの結婚生活の平均は約13年です。もちろん、それは13年間ずっと結婚生活が悪かったという意味ではありません。しかし普通、人間関係が一夜にして崩壊することはありません。問題が長い間未解決のまま放置され、ようやくその悲劇的な結果に気づくのです。

「神の問い」というメッセージシリーズを続けていますが、今朝は創世記第4章、カインとアベルの物語を見ていきます。そして、小さなことでも人の心の中で芽生え、それに対処しようとしない場合に、何が起こり得るのかを見ていきます。罪の悲劇的な点は、ただ単に、今、それが何をもたらすかということではなく、今日対処しなければ、やがてそれがどうなってしまうのかということです。

この物語から、もうひとつ気づいてほしいことがあります。神はただ傍観して事態の成り行きを見守っているだけではありません。神は慈しみをもって介入してくださるのです。神はカインの心の内を見抜き、彼に近づき、問いかけ、この先どうなるかを警告してくださるのです。そして、神は私たちに対しても同じようにしてくださいます。そこで、この箇所を学んでいく中で、皆さんに心の片隅に留めておいてほしい質問があります。「今、私の心の中で起きている何か小さなことで、神様が私に向き合い、取り組むよう促しておられることはあるだろうか?」

創世記4章1~9節を読んでみましょう。

人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」(創世記4章1~9節)

さて、カインとアベルという二人の兄弟がいました。この二人の兄弟にはそれぞれ違う役割があり、カインは農夫で、アベルは羊飼いでした。二人はそれぞれの仕事から得たものを主への捧げ物として持ってきました。カインは収穫物の一部を、アベルは自分の群れから生まれた羊の初子を捧げました。そして、理由は聖書に書かれてありませんが、理由が何であれ、神はアベルの捧げ物を喜ばれましたが、カインの捧げ物は受け入れられませんでした。このことでカインは怒り、へブル語の原文では文字通り「顔色が変わった」とあります。欲しいものが手に入らず、すねてうつむきながらも、同時に怒りを露わにしている子供の姿を思い浮かべます。そして、神はカインに最初の問いかけをします。神はこう尋ねました:

1.なぜ、あなたは怒っているのか

この箇所から、カインが何か間違ったことをしたことがわかります。なぜなら、神は修辞疑問文で問いかけておられるからです「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられないだろうか?いや、受け入れられる。」あるいは、他の訳では、「もし正しいことをすれば、あなたの表情は明るくなるのではないか?」とあります。言い換えれば、正しいことをすれば、気分が良くなるのではないか、ということです。しかし、同時に警告も伴っています。もし間違ったことを続けさえすれば、神は「戸口で罪が待ち伏せている」とおっしゃいます。そして神はカインに、自分の罪を治めるようにと言いますが、明らかにカインは自分の罪を治めることはありませんでした。カインは罪に支配されてしまい、偽りの口実で弟と散歩に行くふりをして、弟を殺してしまったのです。恐ろしい悲劇です。

最初の質問に戻りましょう。「なぜ怒っているのか?」カインの答えは何だったでしょうか?彼は沈黙しています。神は話し合おうとしますが、カインにはその気がありません。実際、カインは誰ともそのことについて話しませんでした。その代わりに、彼は怒りを募らせ続け、それがどんどん膨らんでいき、ついには弟にその怒りをぶつける結果となったのです。

カインは誰に対して怒っていたのでしょうか?この物語は、カインが神に対して怒っていたことを示唆していると思います。つまり、アベルはカインを怒らせるようなことは何もしていなかったのです。そして、神に対するカインの沈黙は、カインの怒りが神に向けられていたことを物語っています。ここに見受けられるのは、アベルという無実の犠牲者と、その背後にある真の標的である神です。

なぜカインは怒っているのでしょうか?神から恵みを受けられなかったから怒っているのです。その代わりに、神はアベルに恵みを示したのです。では、カインはどうしたのでしょうか? カインは神を罰することも、神に直接怒りをぶつけることもできません。そこで彼は、神に愛された者に対して手を出したのです。カインは神に対して直接何もできませんが、神の愛の対象を排除することはできます。神の愛の対象を殺すことで、神を傷つけることができるのです。

この行動は、カインの心の状態を完全にあらわにしており、彼は自分の心と向き合うことを拒んでいるのです。神はカインに、その問題と向き合う機会を与えます。神はカインに、なぜ怒っているのかと尋ねます。神はカインと話し合おうと望んでおられますが、カインは黙り込んでしまいます。神は、その怒りを抱え続けないよう警告します。しかし、カインは神の警告を無視します。

このことは、今の私たちも直面している原則を明らかにしています。それは、私たちと神の間に立ちはだかる問題と向き合うことを拒むとき、元の問題とは何の関係もない人々を傷つけてしまうことがよくあるということです。神が私たちの人生で働いてくださることに腹を立てると、つい他の人に八つ当たりをしてしまうことがよくあります。しかも、それは意図的ではないかもしれませんが、知らず知らずのうちに表に出てしまいます。神に失望して、その感情を家族にぶつけてしまうこともあるでしょう。神に不公平に扱われたと感じ、祝福されているように見える人々に対して恨みを抱き始めることもあるでしょう。神がこの人生で自分に与えてくださった立場に不満を抱き、自分より先を行っているように見える他人を批判してしまうこともあるでしょう。神の前で恥を感じ、自分への挑発のようだと感じる相手を激しく非難してしまうこともあるでしょう。あるいは、神が他の人に与えたものにただただ嫉妬し、その人を嫌うためのあらゆる理由を探し出してしまうのかもしれません。アベルは、カインが神との対立を放置した結果の犠牲者でした。カインは、神との関係を他者との関係に影響させてしまったのです。それは避けられない相関関係なのです。多くの場合、他者との関係は、神との関係を映し出しています。そして結局のところ、神が他者のために何をしているかということが問題なのではありません。より大きな問題は、神が私たちのためにしてくださっていることに対する私たちの不満や恨みであり、そこで神に決定する権利があるということも問題を大きくする理由です。

神はカインに、どうすれば状況が良くなるかを告げます。「正しいことをすれば、気分も良くなるだろう」。しかし、カインは「いやだ!」と言います。彼は自分のやり方でやるつもりで、圧倒的不利な状況の中でも、神に対する復讐を企てるつもりなのです。彼の怒りと嫉妬は、もはや冷静に考えることさえできないほど高まっていました。問題を放置し、悪化させてしまいました。そして、その後の数日、数週間、あるいは数ヶ月間、カインはアベルを殺す計画を練り上げました。しかし、全知全能の神の前で、それがどれほど愚かなことなのか、彼は全く理解していませんでした。

ここで、怒りや嫉妬、あるいは神に対する失望に苦しんでいる方々に向けて一言付け加えさせてください。この御言葉に耳を傾けてください。「もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」 一日たりとも、怒りや、その他の神様との間にある問題を、そのままにしておかないでください。そうしないと、あなたの思考は次第に盲目になり、霧がかかったように不明瞭になっていきます。そして、人を傷つけるような対処の仕方を考えるようになります。しかし、それ以上に傷つくのは、ほかでもない自分自身です。自分の目ではなく、神の目から見て正しいことを行いましょう。感情に基づいて決断を下してはいけません。正しいと知っていることに基づいて決断を下してください。

ですから、私たちが「神様が決める権利」に疑問を持ち始めるとき、そして自分自身や自分の置かれている状況を見つめるとき、そこに自分が望んでいないものを見つけると、神様が決める権利そのものに不満を抱くようになります。そして、私たちは他の人と自分を比べ始めます。

  • なぜあの人で、私ではないのか?
  • なぜ神は彼女にそのような人生を与え、私には与えてくれないのか?
  • なぜ神はその人の祈りに答え、私の祈りには答えてくれないのか?
  • なぜ神は彼にはその扉を開いてくれたのに、私には開いてくれないのか?
  • なぜ神は他の人を祝福しているように見えるのに、私を祝福してくれないのか?

そして、結果として、私たちは自分が欲しいと思っているものを持っている人々に対して憤りを感じるようになります。しかし、本当の問題は、私たちと神との関係にあるのです。繰り返しますが、他者との関係は、私たちと神との関係を映し出しています。結局のところ、私たちが向き合わなければならない問題は、神がカインに問いかけたこの問いです。「なぜ怒っているのか?」その根底には何があるのでしょうか?なぜ他者に対して恨みを抱くのでしょうか?なぜ嫉妬するのでしょうか?あなたの心の中で、本当に何が起きているのでしょうか?その原因を探ってみてください。なぜなら、もし私たちが自分の内面で起きていることに向き合わなければ、それは私たちのそばにいる人々に影響を及ぼしてしまうからです。なぜ怒っているのですか?なぜ失望しているのですか?なぜ恨みや苦々しさを抱いているのですか?もっと深く、自分の心を見つめてみてください。

そして、カインがアベルを殺すというこの計画を練り、実行した後、まるでエデンの園のアダムとイブの時のように、神はカインを見つけ出し、彼に別の質問を投げかけます。

2.あなたの弟は、どこにいるのか

もちろん、神はアベルがどこにいるか知っていますが、カインに正直に話してほしいのです。しかし、カインはどのように答えたでしょうか?彼は神の質問に反論します。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」これは非常に危険な行為です。もちろん、カインは知っていますが、ためらいもなく、罪悪感も感じることなく嘘をつきました。カインの反応は、まるで未熟な十代の若者のようです。神の問いに対する彼の返答は、親に口答えする反抗期の思春期の子供のように聞こえます。その反応は、反抗と責任転嫁、そして皮肉に満ちています。カインはアベルがどこにいるかを正確に知っているのに、嘘をつき、さらに神に言い返しました。「俺にどうして分かるんだ?アベルの行方を把握するのが俺の仕事か?」 もちろん、カインはアベルがどこにいるかを正確に知っています。なぜなら、自分の弟を殺すという、考えられないようなことをしてしまったからです。カインが、自分がしたことを事実上否定し、あれほど簡単に反論できたことに私は驚きを覚えます。彼は本当に、神を騙せると思っていたのでしょうか?本当に、その罪を逃れられると思っていたのでしょうか?カインが一体何を考えていたのか、ただただ疑問に思うばかりです。

しかし、現実には、聖書の中でも、周りの人々の中でも、自分自身の中にも繰り返し見られるのは、人は自分が知っていることと全く相反する行動をとってしまうということがあるということです。多くの場合、人はそれが間違っていると知りながら罪を犯します。神がどのように感じられるかを知りながら、罪を犯すのです。カインに当てはまることが、私たち全員にも当てはまります。私たちの反逆は決して合理的ではないのです。問い詰められると、ほとんどの人は本能的に身を守ろうとし、時にはとんでもない言い訳をしてしまいます。

カインの場合、その戦略は話題をそらし、責任を転嫁することでした。彼は神の問いを、神自身に跳ね返すことでかわそうとしました。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」 しかし、この戦略に対してさえ、神は恵み深くあられます。神はカインが何をしたかを知っておられ、その場で即座に彼を裁くこともできたはずですが、そうはせず、カインに告白する機会を与えるような問いを投げかけられました。それは、カインが報いを免れるという意味ではありませんが、罪悪感に縛られたり、隠蔽や嘘から生じる重荷を背負い続けたりすることから解放してくださることを意味しています。私はここ数週間、告白の重要性について語ってきましたが、そのことがここでも強調されています。告白には、心を解き放つものがあります。告白とは、神がすでに知っていることを神に伝えることではありません。告白とは、神がすでに見ておられることについて、神と一致することです。それは、私たちの罪について神がどう考えておられるかについて、神と一致することを意味します。

告白は、告白する本人にとって、他の誰よりもはるかに大きな意味を持つと思います。なぜなら、それは私たちの罪を明るみに出し、向き合えるようにしてくれるからです。私たちが絶えず隠し続けていることには、向き合うことはできません。もしそれをカーペットの下に隠し続けていれば、決して解決されることはありません。ですから、告白して自分の罪を認める時、そこには大きな自由がもたらされるのです。私たちは言い訳をするのをやめなければなりません。「大したことじゃないよ」と、自分の罪を軽視するのをやめなければなりません。「私は恨んでなんかいない。ただ慎重になっているだけだ」と罪をごまかすのをやめなければなりません。「あなたが私の立場なら、同じことをするはずだ!」と言って自分の罪を正当化するのをやめなければなりません。そして、よくあるのがこれですが、「少なくとも、あの人みたいなことはしていない」と他人と自分を比較するのはやめなければなりません。「挑発されなければ、あんな反応はしなかったのに」と、他人を責めるのもやめなければなりません。

私もその一人ですが、私たちがとても得意なことは、本当に告白することなく、告白したふりをすることです。罪の核心を避けて、遠回しに告白してしまうのです。 「主よ、この状況をうまく扱えなかったことをお赦しください」と祈るかもしれませんが、本当に自分の過ちを認めて「主よ、お赦しください。私は残酷でした」と言うべきなのです。物事をありのままに認めることが大切です。あるいは、「主よ、この人に対する私の悪い考えをお赦しください」と言うのではなく、罪を真正面から認めて「主よ、彼や彼女を羨ましく思ったことをお赦しください」と言うべきなのです。あるいは、「主よ、あの人をパーティーに招待しなかったことをお赦しください」と言う代わりに、「主よ、あの人に対して忍耐を欠いたことをお赦しください」と言うべきなのです。もちろん、最初の祈りに何の問題もないのですが、それは罪の根源には触れられていないように思えます。行動については告白していますが、心の内には触れていません。率直で、核心を突く告白が欠けているのです。

ですから、神がカインに「あなたの兄弟はどこにいるのか」と尋ねられたとき、神は情報を求めているのではなく、カインに正直な告白をするよう招いておられるのです。あなたの人生の中に、神がご存じだと分かっているのに、まだ神に対して正直に認めていないことはありますか?正直さと勇気、謙虚さ、そして涙さえも込めて、神に向かって声に出して告白できるようになるまで、その問題と本当の意味で向き合うことは決してできないでしょう。

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さて、少し本題から離れて、この問いについて考えてみたいと思います。「私は弟の番人なのでしょうか?」ある意味で、答えは「いいえ」です。カインはアベルが下すあらゆる選択に対して責任を負うわけではありません。私たちは、他の人が下すあらゆる選択に対して責任を負うわけではなく、また、他の人に特定の選択を要求することもできません。このことについては先週も話しました。本人が望まない限り、私たちには人を変えさせることはできません。最終的には、それはその人自身の責任です。しかし、別の意味では、私たちはまさに「兄弟の番人」なのです。聖書的に言えば、私たちは互いに気遣い合うよう求められています。周りの人々の人生に関わり合うよう求められているのです。私たちには周りの人々に対する責任があるのです。

新約聖書の至る所に、「互いに愛し合いなさい。」「互いに仕え合いなさい。」「互いの重荷を担い合いなさい。」などという言葉が見られます。私たちのキリスト教の信仰は、個人的なことだけではありません。私たちは美しい共同体の一員であり、それは私たちが最も深いレベルで人生を分かち合っていることを意味します。ですから、誰かが孤独を感じているとき、それは私たちの問題でもあります。誰かが何かに苦しんでいるとき、それは私たちの問題でもあります。誰かが霊的に落ち込んでいるとき、それは私たちの問題でもあります。誰かが悲しんでいるとき、私たちも悲しむのです。私たちは互いに支え合う家族です。ですから、非常に具体的な意味で、私たちはまさに「兄弟の番人」なのです。互いに寄り添い、相手が最も助けを必要としている時に共感することは、私たちの責任です。しかし、「兄弟の番人」であるということは、共感だけで終わるものではないということを忘れてはなりません。おそらく多くの場合、それは非常に困難な事柄に立ち向かうことを意味することもあるのです。

先週の日曜日、人は自分の弱さや苦しみを中心にして人生を築いてしまうことがある、と語りました。彼らはある種の障害(必ずしも身体的な障害という意味ではありません)を抱えて生きることにすっかり慣れてしまい、この状況は決して変わらないと信じるようになってしまうのです。そして先週も述べたように、時には状況を変えることができず、私たちはそれを「とげ」として受け入れ、それにもかかわらずではなく、それゆえに、神に忠実に生きるのです。しかし一方で、苦しみを抱えている人の中には、「どうせ何も変わらない」と信じて、その苦しみを中心に人生を組み立てるようになってしまった人もいます。そして、苦しんでいる人々に対して、神の家族として、その人たちを助けたいと願っています。もちろん、それは多くの場合、思いやりを示すことを意味します。私たちは、少し多めに恵みを示すべきでしょう。時には、少し距離を置いたり、期待値を下げたり、彼らに対して配慮を示したりすることも必要です。しかし、それだけに留まってしまうと、そこにはリスクがあります。思いやりは、意図せず妥協へとつながりかねません。私たちは人々の弱さや苦しみに歩み寄りますが、その過程で、その歩み寄りが「甘やかし」につながってしまう可能性があります。思いやりを示したいという願いから、私たちは人々が現状に留まることを許してしまうのです。私たちの思いやりによって作り出した限界や境界線の中で、その人が生き続けることになってしまうことがあります。ある意味では、私たちがその人の苦しみを避けて生きられるようにしてしまうことさえあります。なぜなら、みんながその問題をうまく避けて生活する方法を見つけてしまえば、その人は自分の苦しみに向き合わなくてもよくなるからです。「兄弟の番人」としての私たちの責任は、人々をより快適にさせることではありません。私たちの責任は、家族が霊的に神に近づき、一人ひとりが神が創造された本来の姿へと成長していくことを確実にすることです。そして、時にはそれは、難しいことに真正面から向き合うことを意味します。ですから、「あなたの兄弟はどこにいるのか」という問いが浮かんだとき、自分自身にこう問いかけてみてください。「キリストにある兄弟姉妹が、霊的にどのような状態にあるか知っていますか?」「彼らが今、何を経験しているか知っていますか?」もちろん、共感を持って接し、彼らの状況に気を配りましょう。しかし、厳しい質問を投げかける勇気を持ってください。「電話をかけるべき人はいませんか?」「励ますべき人はいませんか?」「愛をもって向き合うべき人はいませんか?」「重荷を一緒に担ってあげるべき人はいませんか?」「神様から離れかけている人で、もう一度戻れるよう助ける必要のある人はいませんか?」「行き詰まっている人はいませんか?」「罪と闘っている人はいませんか?」 
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神が最初に尋ねられたのは、「なぜ怒っているのか」ということでした。神は私たちに、自分の心を見つめるよう求めておられます。

続いて神は「あなたの兄弟はどこにいるのか」と尋ねられます。神は私たちに、人間関係を見つめるよう求めておられるのです。なぜなら、もし私たちが神との関係をどう築いているかを知りたいと思うなら、他の人との関係を見ればよいからです。それがヨハネの手紙第一のテーマでもあります。「私たちは兄弟の番人なのでしょうか。」多くの点において、そうなのです。しかし、一つ注意すべきことは、自分自身を律していなければ、兄弟の番人になることは難しいということです。そして、それは自分の罪を認め、神に告白することから始まります。しかし、それだけではありません。神はカインにもう一つ質問を投げかけます。

3.いったい、あなたは何ということをしたのか

主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」主は言われた。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4章9~10節)

ここで、カインは告白する気のない自分の罪と向き合うことになります。少し厳しい言い方かもしれませんが、いずれにせよ、告白しようがしまいが、私たちの罪はいずれ明るみに出るものです。告白を通じてこそ、私たちは罪と正直に、そして、意味深く向き合うことができるのです。しかし、告白を拒み続ければ、その罪は別の形で表れてきます。罪とは、私たちの生活の中から自然と漏れ出てしまうものなのです。

カインが、遺体を隠すことで自分の罪も隠せると考えたのは興味深いことです。アベルの遺体は野原のどこかにあり、語ることもできず、カインの罪を証言することもできません。それにもかかわらず、神の言葉には大きな皮肉が込められています。「あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる」これには、詩的な響きがあります。カインは、自分の罪がばれずに済んだと思っています。言い訳をすれば、この件を黙殺できると考えていたのです。しかし、真実は、アベルの血が叫んでいるということです。それは大地から滲み出ているのです。罪には、滲み出る性質があるのです。

私たちは罪を隠そうと試みるかもしれませんが、それはやがて何らかの形で私たちの生活の中に現れてきます。例えば、恨みを隠そうとしても、やがてそれは私たちの話し方に影響を及ぼし始めます。嫉妬を隠そうとしても、やがてそれは批判という形で滲み出てきます。高慢を隠そうとしても、やがてそれは私たちの不安を通して現れてきます。依存症を隠そうとしても、やがてそれは人間関係、経済状況、優先順位、時間の使い方に影響を及ぼし始めます。恨みを隠そうとしても、やがて人々はそこから漂う冷たさを感じ始めるでしょう。罪そのものを秘密にしておくことはできるかもしれませんが、その影響が何らかの形でそれをあらわにしてしまうのです。もし私たちが心の中に隠された罪に向き合わなければ、やがてそれらは大地から叫び声を上げるようになるのです。

……………….

最初の質問に戻ります。「なぜあなたは怒っているのですか?」神はカインに恵み深く接されました。神はカインに、そのことについて話し合うよう招かれました。また、もしそれに対処しなければ何が起こるかを警告されました。神はその罪がどのように膨らんでいくかを知っていたからこそ、カインにすぐにそれに対処してほしかったのです。しかし、カインはそれを抱え続けました。そして、潜んでいた罪が彼を捕らえました。それがさらに大きな罪へと繋がり、弟を殺してしまいました。それにもかかわらず、神は恵み深く彼に告白する機会を与えましたが、彼はそれすらも拒み、罪はエスカレートし続け、罪を隠そうとして嘘をつきました。そして結局、その結果は厳しいものとなってしまったのです。その結果の中でさえ、神は恵み深くあられました。カインは荒野へと追いやられ、作物を育てることもできなくなり、そこで一人きりで殺されてしまうのではないかと恐れました。しかし、神はご自身の恵みによってこう言われました。

主は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」主は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。(創世記 4:15)

つまり、カインの行いがどれほど悪かろうと、神に対する反逆であろうと、神は依然として恵み深かったのです。カインとアベルの物語を聞くとき、私たちはすぐにカインを殺人者だと決めつけてしまいがちです。しかし、この箇所には、それと同じくらい深く、神の恵みが現れているのです。カインが自分の罪の真実を受け入れなかったときに何が起こるか、注目してほしいと思います:

カインの怒り → 恵み → 罪を犯す → 恵み → 罪を隠す → 罪の結果 → 恵み

カインの物語では、罪はますます悪化していきます。しかし、神は絶えず恵みを示し続けておられます。カインの罪はエスカレートしていく一方で、神の恵みは常に彼に寄り添い続けます。カインがアベルを殺す前にも、神は彼のもとに来られました。カインがアベルを殺した後にも、神は彼のもとに来られました。神がカインを裁かれた後でさえ、神は彼を守ってくださったのです。

カインの人生から一つ学ぶべきことがあるとすれば、それは、事態が悪化する前に、神が私たちに内面の問題と向き合うことを望んでおられるということです。そして神は、私たちをその方向へと導くために、恵み深く働いてくださいます。しかし、もし私たちが先延ばしにしたり、高慢すぎてそれに向き合おうとしないなら、神は、罪が待ち伏せて構えており、その欲望は私たちに向けられている、と警告されます。そして、罪に捕らわれてしまうと、内面で起きていることを元に戻すことはますます難しくなっていくのです。

とはいえ、立ち返るのに遅すぎるということは決してありません。神は恵み深く、力強く、私たちの内側で働きかけ、その罪の連鎖を断ち切ることができます。自分の罪に対して健全な方法で向き合うよう招いてくださる神の恵みに、ぜひ気づいてください。誰かがあなたに何かを指摘してきたら、その人の言葉に耳を傾けてください。何かがあなたの中に強い反応を引き起こしたときは、それを隠しごまかすのではなく、しっかりと認識してください。良心が咎める時は、それをすぐに無視してはいけません。むしろ、それを神に持ち出し、対処すべきことがあるかどうか確かめてください。神が「なぜあなたは怒っているのですか」と尋ねておられるなら、カインのように、その問いから逃げないで、答えてください。神様の恵みは豊かです。そして、事態がさらに深刻になる前に、自分の内側で何が起こっているのかに向き合うことを、神様は望んでおられます。そしてカインに対してそうされたように、神様は私たちにも告白するように招いておられます。自分の罪を認めること、そして、それが罪であると神様に同意することです。そうするとき、神様は私たちの内側で働き始めてくださいます。罪には、早い段階で正直に向き合いましょう。なぜなら、罪は隠したり、無視したり、否定したりすることで、決して向き合いやすくなることはないからです。「あなたは、なぜ怒っているのでしょうか?」神様があなたに難しい質問をされるとき、その問いについて時間をかけて、自分自身に答えてみてください。